第13話 飼育小屋の惨劇と覚醒

 FC2091年、夏。岐阜県飛騨山中、HIDANDE研究所。

 外界から隔絶されたこの施設の隔離病棟で、子どもたちが過ごし始めて3年の月日が流れていた。


 実験動物飼育室。

 そこは、本来子どもが立ち入るべき場所ではない。魔素ダークマター投与実験によって変異した動物たちが管理されている場所だ。

 だが、世話係の石井ジュンは、一人の少年をそこに招き入れていた。


「どうだい、ゴウ君。彼らは可愛いだろう?」

「うん……。このウサギ、目が赤いけど、大人しいね」

 柴山ゴウは、ケージの中の変異ウサギを撫でていた。普段、隔離病棟の子ども部屋では見せない、安らいだ表情だった。


 ゴウは、石井に心を許していた。石井だけが、自分の愚痴を聞いてくれるからだ。

「部屋にいるとイライラするんだ。ユミ姉ちゃん、いっつも『レオ、レオ』って。レオも、あの小さい妹を盾にして、いい子ぶってさ」

 ゴウの指に力がこもる。ウサギが少し怯えて身をすくませた。


 ゴウは最年長の河原ユミに淡い恋心を抱いていたが、ユミは氷室レオと妹のルナの世話にかかりきりだった。それが面白くなかった。


 石井は眼鏡の奥で冷ややかに目を細め、甘い声で囁いた。

「なら、今度はユミちゃんもここに連れてくればいい。動物を見れば、きっと彼女も喜ぶ。君が案内してあげれば、彼女も君を見直すんじゃないかな?」

 ゴウの顔がパッと明るくなった。


「本当? 連れてきても怒られない?」

「ああ、僕がいいって言ったと言えばいい」

 ゴウが嬉々として部屋を出て行くと、もう一人の世話係、村瀬コウが呆れたように入ってきた。


「石井さん、何を企んでいるんですか? あそこには高濃度の魔素サンプルも置いてあるんですよ」

「人聞きが悪いな。ただの『アニマルセラピー』ですよ。……ストレスに対する反応を見るためのね」


 後日、子ども部屋。

「ねえ、ユミ姉ちゃん。面白いもの見せてあげるよ。動物がいっぱいいる部屋があるんだ」

 ゴウは、レオたちがいない隙を狙ってユミに話しかけた。


「動物? 本当?」ユミは興味を示したが、すぐに部屋の隅を見た。「でも、勝手に行ったら……。それに、許可は?」

「大丈夫だよ、石井さんがいいって言ってたから!」


「そう……じゃあ、みんなで行こうか!」

 ユミは笑顔で振り返り、レオとルナ、そして部屋の隅にいる南田カオルに声をかけた。

「みんなー! 動物さん見に行こう!」


「えっ……」

 ゴウの表情が曇る。


「二人だけでいいじゃん……」

「ダメよ、仲間外れは。行こう、レオ君、カオル君」

 レオはルナの手を引いて立ち上がった。カオルはおずおずと顔を上げた。


 ゴウは舌打ちしたいのを堪え、引きつった笑顔で「……うん、そうだね」と承諾した。

 内心の嫉妬は、どす黒く渦巻いていた。


 飼育室に入ると、子どもたちは目を輝かせた。

「うわぁ、すごい! リスがいる!」

 ユミがはしゃぎ、ルナも「あー! あー!」と指差して喜んでいる。レオは危なくないようにルナをガードしていた。


 その様子を見て、ゴウの苛立ちは頂点に達していた。せっかくのユミとの時間が、またレオたちに邪魔された。


 ふと見ると、カオルがケージの檻越しに、何かブツブツと呟いていた。

「……うん、痛いの? お腹すいたの?」

 ゴウは八つ当たりの対象を見つけた。


「おいカオル! 何独り言言ってんだよ。気持ち悪いな。動物と話せるとでも言うのかよ?」

 ゴウがカオルの肩を乱暴に突いた。

「や、やめ……」

 カオルが怯える。


「ちょっと、やめなさいよゴウ!」

 ユミが気づいて駆け寄る。


「弱い者いじめはダメって言ったでしょ!」

「うるせえ! ユミ姉ちゃんはいつもあいつらの味方ばっかりだ!」

 口論が始まった。


 レオがルナを庇いながら止めに入ろうとする。

「やめろよゴウくん。カオルくんが嫌がってるだろ」

「お前が一番むかつくんだよ! 偉そうに!」

 カッとなったゴウは、全体重を乗せてレオを突き飛ばした。


「うわっ!」

 レオの体勢が崩れ、背後の実験用ワゴンに激突した。


 ガシャーン!


 金属音が響き、ワゴンの上に置かれていた高濃度ダークマターが入ったフラスコがバランスを崩し、落下した。

 スローモーションのような時間の中、フラスコが床に落ち、砕け散った。


 バシャッ!


 漆黒の液体が飛散し、爆発的な勢いで黒煙となって膨れ上がった。

「あぶない!」


 ルナが叫んだ。彼女の体から、本能的に透明な障壁バリアが展開され、レオの体を包み込む。

 しかし、発生源はあまりに近すぎた。


「ぐあああああああっ!」

 レオの悲鳴が響く。


 ルナのバリアが展開されるコンマ一秒前、飛散した原液がレオの左半身を直撃していた。

 左腕、左足、そして左脇腹が、一瞬にして音もなく消滅した。


「レオ!」

 ユミが反応したが、彼女の目の前で飛散した液体は黒い霧となって広がり始めた。

 彼女は咄嗟に、放心状態のゴウを背中に隠した。

「ユミ姉ちゃ……」

 ゴウの目の前で、ユミの体が黒い霧に包まれた。

「逃げ……て……」

 それが最期だった。優しかった少女の体は、服だけを残して、跡形もなく蒸発した。


 ゴウはその光景に絶叫した。

 だが、彼自身も無事ではなかった。黒い霧はなおも広がり続け、彼の右腕と右足が霧に触れた。

「ぎゃああああ! 俺の手が!」

 ゴウの右腕と右足が蒸発する。


「死にたくない! 助けて!」

 しかし、死の直前、ゴウの願いが神に届いたのか、恐怖と身体に取り込まれた魔素が体を変質させた。

 ゴウの瞳がカッと赤く染まり、右肩と右腿の断面が赤黒く炭化して、蒸発が止まった。


「ひっ、ひぃっ!」

 カオルはパニックになり、出口のドアへ走った。


「開けて! 開けてよぉ!」

 だが、ドアは外から施錠されていた。石井の仕業だ。


 迫りくる黒い霧。逃げ場はない。

 ついには、黒い霧がカオルを包み込む。カオルは死を覚悟し、恐怖のあまり絶叫した。

 その瞬間、彼の瞳もまた、鮮烈な赤色に変貌した。


 ドォォォォン!!


 カオルの絶叫に呼応して、鋼鉄製のドアが内側からひしゃげ、吹き飛んだ。魔力の覚醒だった。



 部屋の中央では、さらに信じられない現象が起きていた。


「レオ……レオ……」

 4歳のルナは、半身を失い、血溜まりの中に倒れる兄を見ていた。バリアで包み込んだことでレオの蒸発と流血は止まったが、傷が塞がったわけではない。

 助けなきゃ。レオが死んじゃう。私が助けなきゃ。

 ルナは小さすぎる手で、レオの欠損した断面に触れた。


 力が足りない。


 兄の命を繋ぎ止めるには、質量が、魔力が、何もかも足りない。


 ルナの赤眼が妖しく発光した。


 彼女は、部屋に充満する高濃度ダークマターと、レオが失った「質量」そのものを、自らの体内に吸収し始めた。


 ズズズズズ……。


 ルナの体が、骨が、筋肉が、強制的に成長していく。

 幼児の服が裂け、髪が伸び、手足が伸びる。

 数秒のうちに、彼女は4歳の幼児から、8歳ほどの少女の姿へと変貌を遂げていた。


「……なお、って」

 成長したルナの手から、膨大な魔力が放出され、レオの傷口を覆った。

 失われた手足は戻らない。だが、生命維持に必要な血管と臓器の断面が、魔力によって強引に封合された。

 レオの心臓が、微かに、しかし確かに鼓動を続けた。



 モニター越しに惨劇を見ていた石井は、口元を歪めていた。

「……想定以上ですね」


 部屋に入ってきた実験医師、朝倉マストが、モニターと石井を交互に見た。

「石井君。この結果に満足かね?」


 石井はとぼけたように肩をすくめた。

「まさか、ゴウ君が友人を突き飛ばすとは。子どもたちの遊びが、こんな悲しい事故に繋がるとは思いませんでした」


 朝倉は、惨状を映すモニター――意識不明のレオ、蒸発したユミ、手足を失い気絶したゴウ、ドアを破壊して呆然とするカオル、そして急成長したルナ――を見つめ、満足げに頷いた。

「……まあいい。私は満更でもないよ。これが『未必の故意』だとしてもね」


 朝倉はカルテに素早く記録を書き込んだ。

「K1(ユミ)はロスト。H1(レオ)は意識不明の重体、おそらく植物状態だろう。S1(ゴウ)は右腕右脚欠損だが生存、魔素への適応を確認。M1(カオル)は魔力放出による物理破壊能力が覚醒」


 そして、ペンの先をH2(ルナ)に向けた。

「そしてH2。魔素吸収による急成長アクセラレーションと、治癒魔術の発現。彼女こそが、我々の最高傑作になるだろう」


 こうして、研究所の冷たい床の上で、子どもたちの無邪気な日々は終わりを告げた。

 生き残ったルナとカオルは、本格的な「実験体」として管理され、ゴウはベッドの上で憎悪を募らせ、レオは目覚めぬ眠りについた。


 ルナが、感情を無くし、ダンジョンハンター養成校に入校するのは、これより7年後のことである。

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