「先輩、私のこと好きですよね?」高校デビューした後輩女子が、『新婚ごっこ』を強制してくる件について。
速水静香
第一章:一日目
第一話:高校デビューしたキラキラ後輩女子が、なぜかボッチの俺をロックオンしている
高校二年生の四月。
世間では、この時期を「青春の始まり」だとか「出会いの季節」だとか呼んで持て囃しているらしい。だが、今の俺にあるのは、これから始まる一年間の「面倒なこと」に対する重たい溜息だけだった。
俺が求めているのは、甘酸っぱい青春でも、熱い友情でもない。平穏。ただそれだけだ。誰にも干渉されず、誰の世話も焼かず、ただ静かに空気を吸って吐いていたい。
新しいクラス、新しい人間関係。それらは全て、俺の安息を脅かす敵だ。
「神楽君、ここの係やってくれない?」だの「今度みんなでカラオケ行こうぜ」だの、そういった誘いを断るための言い訳を考えるだけで、精神力が削がれていく。
だから俺は「ステルス」を貫くことにしている。
教室の風景の一部となり、背景と同化し、誰の記憶にも残らないモブキャラとして振る舞う。教師に指名されず、クラスの派閥争いに巻き込まれず、クラス委員を押し付けられることもない。そんな灰色の世界こそが、俺の目指す楽園なのだ。
通学路は、近年開発されたばかりの新興住宅地を抜けていくルートだ。
区画整理された無駄に綺麗な歩道、等間隔に植えられたまだ幹の細い街路樹、そして判で押したように似たようなデザインの真新しい戸建て住宅が建ち並ぶ。
ポケットに手を突っ込み、一定のリズムで歩を進めていた俺は、ふと背中に違和感を覚えた。
視覚的な情報ではない。なんとなく、背中のあたりがむず痒い。
誰かに見られている。
そんな、小動物的な直感が働いた。
いや、これは自意識過剰だ、と俺はすぐに思い直す。
俺のような地味な男子生徒を、わざわざ朝の忙しい時間帯にロックオンする物好きなど存在するはずがない。
念のため、俺は歩調を変えずに、カーブミラー越しに後方を確認した。
誰もいない。
いや、正確には同じ制服を着た生徒たちがパラパラと歩いている。だが、特定の誰かが俺を凝視している様子はない。
数人のグループで大声を上げている奴ら、スマホの画面に吸い込まれそうになっている奴。全員がそれぞれの世界に没入しており、俺という存在など認識していない。
気のせいか。
俺はそう結論づけ、猫背気味だった背筋を少しだけ伸ばす。
もしストーカーだとしても、俺なんぞを追跡しても得られるものは何もない。せいぜい、俺がボッチなやつだとわかるくらいだろう。
俺は校門をくぐり、敵地へと足を踏み入れた。
昇降口前には人だかりができている。新クラスの名簿が張り出された掲示板だ。
そこからは「うわ、最悪!」「やった、一緒じゃん!」と一喜一憂する声が反響している。ああ、朝からよくそんなに声が出るものだと感心した。
俺はその喧騒を避け、遠巻きに自分の名前と新しいクラス――2年3組であることだけを確認すると、すぐに自分の靴箱へ向かう。
上履きを取り出し、革靴と入れ替える。この動作を誰とも目を合わさずに最短時間で完了させ、教室へ移動する。それが今の俺に課せられたミッションだ。
「あ、先輩だ」
その声は、あまりにも鮮やかで、そして俺の日常には存在しない女子生徒のものだった。
先輩。
その単語が俺に向けられたものだとは、微塵も思わなかった。
俺に後輩の知り合いなんていない。部活にも入っていないし、友人はゼロだ。
俺は自分の背後に、誰か人気者の先輩でもいるのだろうと判断し、靴を履き替える手を止めずに視線だけを軽く横へ流した。
そこにいたのは、俺とは住む世界が違う女子生徒だった。
ふわりと緩く巻かれた栗色の髪が、歩くたびに揺れている。制服の上には少し大きめのベージュのカーディガンを羽織り、袖から指先が少しだけのぞいている。スカート丈は短いが、それは女子高生らしい健気さを感じさせるもので、むしろ洗練された可愛らしさを醸し出している。
いわゆる「ゆるふわ」とか「ゆるカワ」と形容されるような、クラスのカースト上位に君臨していそうな今時の女子高生だ。
そんなキラキラした生き物が、俺の方を見ている。
いや、俺の背後を見ているに違いない。
俺の過去十七年間の人生において、このような華やかな人種と交流を持った記憶は皆無だ。そして、これからもないことだろう。
結論。人違い、もしくは俺の後ろにいる誰かへの挨拶だ。
俺は無表情を貫き、聞こえていないフリをしてその場を立ち去ろうとした。
しかし、俺が一歩を踏み出した瞬間、視界が遮られた。
「ちょっと、無視ですか?」
ふわりと、甘い柔軟剤のような香りが鼻をくすぐる。
彼女は俺の進路を塞ぐように、くるりと回り込んで目の前に立ちふさがった。
その整った顔立ちが、至近距離にある。大きな瞳が、逃がさないと言わんばかりに俺を捉えていた。
「……え?」
俺は間抜けな声を出して、思わず後ずさる。
後ろの誰かじゃない。俺だ。こいつは明確に俺という個体を認識して話しかけている。
「おはようございます、先輩」
彼女は小首を傾げ、人懐っこい笑顔を浮かべた。
周囲の視線が突き刺さる。「誰あれ?」「一年の子?」「あんな地味な奴と知り合い?」という無遠慮な好奇心の目が、俺の背中にちくちくと刺さる。
マズい。非常にマズい。
俺の平穏が、この見知らぬ後輩によって新学期初日の朝から蹂躙されようとしている。目立ちたくないのに、これでは注目の的だ。
俺は恐怖すら覚えた。これは新手の詐欺か? それとも何かの罰ゲームのターゲットにされたのか?
パニックになった俺の判断回路は、最も原始的な解決策を選択した。
逃走である。
「……人違いです」
俺はそれだけを早口で告げると、彼女の脇をすり抜け、競歩に近い速度で昇降口を脱出した。
背後から「あ、ちょっと!」という不満げな声が聞こえた気がしたが、振り返らない。
俺は階段を駆け上がり、自分の教室があるフロアまで一気に移動した。
2年3組の教室に逃げ込むように滑り込み、心臓の鼓動が落ち着くのを待つ。
なんだ今のイベントは。ここはギャルゲーの世界じゃないんだぞ。
俺は頭を振り、不快な記憶を思考から追い出す。忘れろ。ただの事故だ。二度と会うことはない。
気を取り直して、本日最初の、そして最大の関門に挑む。
座席の確認だ。
教室の前方にある黒板には、担任の几帳面な字で座席表が描かれていた。
……教師の独断か。まあどちらにしても、既に決定された運命がそこにチョークで記されていた。
ただ、俺のような人間にとっては、くじ引きなどの席替イベントのような面倒なことが必要ない分、このような管理的なシステムにありがたみを感じた。
俺は黒板の図表に視線を走らせ、自分の名前を探す。
俺の視線が、空中の黒板をさまよう。
神楽カズキ……カグラ……あった。
その位置は、教室の左下隅。窓際の一番後ろと合致していた。
勝った。
俺は心の中でガッツポーズをする。
出席番号の巡り合わせか、教師の気まぐれか。理由はどうあれ、俺は最高のロケーションを手に入れた。ここなら一年間、平和に過ごせる。
指定された席に鞄を置き、俺は深く息を吐いて椅子に沈み込んだ。
朝の不可解な遭遇によるマイナス分は、この勝利で帳消しだ。窓の外には春の日差しと桜。完璧だ。
始業式が始まるまで、まだ少し時間がある。
一息ついた俺は、スマートフォンを取り出した。
友人の少ない俺だが、実は友人ともいえないような相手が一人だけいる。
『一ノ瀬アヤ』
中学時代の後輩で、俺と同じくボッチ属性を持つ大人しい少女だ。図書室の隅で本を読んでいるようなタイプで、俺が高校に進学してからは、もはやリアルで会うことはないが、SNSでのやり取りだけは続いている。
彼女なら、この「理不尽な災難」を笑ってくれるだろう。
『新学期早々、変な女に絡まれた。絶対に人違いだと思うんだが、逃げてきた』
送信すると、すぐに既読がついた。暇なのか。
『変な女って?』
『なんかこう、ゆるふわ系の今時な女子。髪巻いてて、カーディガン着崩してる感じの。あんなカースト上位、俺の知り合いにいるわけないだろ』
『あー、それは災難ですね。でも、向こうは「先輩」って呼んできたんですよね?』
『ああ。しかも無視したら回り込んでまで挨拶してきた。怖すぎる。新手の壺売りかもしれない』
『先輩、警戒心強すぎです(笑)。でも、ちょっと気になりますね。もしかして、ストーカーとか?』
ストーカー。
その単語を見た瞬間、通学路での視線が脳裏によぎった。
新興住宅地の見通しの良い一本道。あそこで感じた視線と、昇降口での待ち伏せ。
点と点が線で繋がるような嫌な予感。
『やめろ。笑えない』
『先輩は、通学路からつけられて、学校に着いたら待ち伏せ。……ホラーの導入部としてはよくありますよね』
『怖がらせるな。たまたまだ』
『本当にそうですか? もし人違いじゃなかったら、明日も明後日も待ち伏せされますよ? 今日のうちに確認しておいた方が、後々の平穏のためだと思いますけど』
痛いところを突いてくる。
確かに、明日から毎日ビクビクしながら登校するのは御免だ。もし本当に何かの勧誘なら、きっぱり断る必要がある。早期解決こそが、平穏への近道か。
『……一理ある』
『でしょ? 行ってきてくださいよ。私、リアルタイムで報告待ってますから』
面白がっているのが文面から伝わってくる。やはり、こいつ、同じボッチなだけあって、陰湿だ。俺の不幸をコンテンツとして消費していやがる。
俺は溜息をついた。
間もなくチャイムが鳴り、体育館での始業式が始まるだろう。確認しに行くなら、式が終わって放課後になってからだ。
初日は午前中で終わる。帰宅前に確認して、もし彼女がいなければ、それでよし。いれば、遠くから様子を窺えばいい。
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