🌸第2話🌻 桜の席は、静かすぎる

──朝は、いつも静かだ。


真白(ましろ)は、そう思いながら、意識の底からゆっくりと浮上していった。カーテン越しに差し込む春の光は柔らかく、昨日の入学式の余韻をまだ部屋の空気に残している。


「……ふぁ……」


寝返りを打とうとして、違和感に気づいた。


──重い。


胸元に、なにか温かいものがある。腕を動かそうとすると、その“なにか”が、むに、と押し返してきた。


「……?」


半分眠ったまま、ゆっくりと目を開ける。


視界いっぱいに飛び込んできたのは──  


無防備に乱れた髪と、すぐ目の前にある、見慣れた幼なじみの寝顔だった。


「………………」


思考が、完全に停止する。


葵(あおい)が、真白の腕をがっちり抱え込み、まるで抱き枕のように、真白にしがみついたまま眠っていた。


しかも。ブレザーは脱がれており、シャツ姿。掛け布団の中で、距離はゼロ。吐息がかかるほど近い。


「……え、え……?」


「なにこれ……どういう……」


混乱が追いつく前に────


「真白ー、起きてるー?」


階下から聞こえた、穏やかすぎる声。


次の瞬間。


ガチャ、とドアノブが回った。


「……っ!!」


真白が息を呑んだ、その一拍遅れで部屋の扉が静かに開く。


「おはよう、真白──」


そして。


「……あら」


母、霞 彩華(かすみ さいか)の視線が、ベッドの上の二人を、正確に捉えた。


数秒の沈黙。


彩華は瞬き一つせず、にこりと微笑む。


「……あらあら」


「ち、違っ……!!」


真白が飛び起きようとして──葵が、むにゃ、と寝言を漏らし、さらに腕に力を込めた。


「……ましろ……あったかい……」


「起きて!! 起きて葵!!」


真白の必死な声に、ようやく葵が目を開ける。


「……ん?あ、おはよー……」


状況を理解した瞬間。


「――ってあれぇぇぇぇ!?」


バッと飛び退く葵。


「な、なななななにこれ!?!?!?」


「それはこっちのセリフだよ!!」


彩華は、二人を見下ろしたまま、困ったように、でもどこか楽しそうに首を傾げた。


「……で?これはどういう状況かしら?」




 ──言い訳地獄が、始まった。



--------------------



すべてを説明し終えた頃には、真白も葵も、完全に魂が抜けていた。


「なるほど……学校が楽しみすぎて、朝早く迎えに来て……真白が寝てたから、寝顔を見てたら眠くなって……そのままブレザーだけ脱いで、潜り込んだ、と」


「……はい……」


葵は正座で項垂れる。


彩華は、ふっと優しく笑った。


「ふふ。葵ちゃんらしいわね」


「怒らないんですか!?」


「怒る理由がないもの」


そう言って、彩華は二人を見渡す。


「真白はね、とても穏やかで……ぼーっとしてるから、昔から放っておけない子なの」


真白は、少し照れたように視線を逸らした。


「だから、葵ちゃん。これからも、そばにいてあげてね」


「……っ」


葵は、一瞬だけ言葉を失い──そして、いつもの笑顔で、力強く頷いた。


「はい! 任せてください!」


笑顔。


 けれど、その胸の奥では――

 小さな不安が、静かに芽を出していた。


(……そばに、いられるかな)


(“幼なじみ”のままで)


--------------------


朝食は、彩華の作った和食だった。


湯気の立つ味噌汁。

焼き魚の香り。

炊き立ての白米。


ダイニングに流れる、ゆったりとした時間。


「……落ち着くね、ここ」


葵がぽつりと言う。


「でしょう? かすみ草みたいな家だから」


「それ、褒めてます?」


「もちろん」


くす、と彩華が笑う。


「真白には、強い刺激より、こういう穏やかな時間が似合うのよ」


真白は、箸を持つ手を止め、少しだけ胸が温かくなるのを感じた。


食後。彩華は、包みを二つ差し出す。


「手作りの桜餅。通学中に食べなさい」


「ありがとう、母さん」


「母さん、行ってきます!」

「彩華さん、行ってきます!」


二人は並んで玄関を出ると、春の風が吹いた



--------------------


春の通学路。


葵は、猫を見つけるたびに追いかけ、真白はそれを止め、結果的に二人で小走りになる。


「待って葵! それ通学路逆!」


「だって可愛いんだもん!」


笑いながらも、葵の視線は、時折、真白を盗み見る。


(……変わらないよね、ましろは)


(でも……変わっちゃう、のかな)


昨日から、学園という“新しい世界”が始まっている。


その中心に、真白がいて。


その周りに、誰かが増えていく。


──置いていかれるかもしれない。


そんな考えを、葵はいつもの笑顔で押し殺した。


ドタバタした朝の空気の中、真白の胸には、小さな期待が芽生えていた。


──新しい学校生活は楽しみだけど、目立たず、静かにすごせたらいいな。


かすみ草らしく。



--------------------


しかしその願いは──朝のホームルームで、あっさり砕かれた。



「はい、みなさん。突然ですが――席替えをします」


椛原花恋の一言で、教室がざわめく。


(昨日入学式だったのに早いな……)


「くじ引きで決めますね」


運命は、容赦がなかった。


結果。


霞 真白の隣の席に、桜乃ひより。


ひよりは、静かに席へ向かった。


心臓の音が、うるさい。


(……隣)


(隣、なんだ)


昨日も同じ教室にいたはずなのに。距離が一つ縮まっただけで、世界の見え方が変わる。


「……よろしく、霞くん」


 声は、震えなかった。


 けれど。


(……ちゃんと、言えた)


 真白がこちらを向く。


「……よろしく、桜乃さん」


 その声は、柔らかい。


 それだけで、胸が締めつけられる。


(……安心する)


(でも……近い)


 ペンを取る仕草。

 ノートを開く音。


 すべてが、気になってしまう。


(こんなに静かなのに……)


(心の中だけ、忙しすぎる)


少し目が合って、すぐに逸らす。


長い時間だった。


(……この距離)


(壊したくない)


(でも……)


踏み出す勇気は、まだない。


桜は、散ることを知っているから。



--------------------



その空気を、ぶち壊す声。


「おーい、ましろー!」


葵。


「距離近すぎじゃなーい?」


「静かすぎて逆に怪しいんだけど!」


さらに。


「はいはい、ここ注目~」


撫子坂なぎが、肘をつきながらニヤニヤする。


「これさぁ、もう“穏やか通り越して熟年夫婦の朝”なんだけど?」


「なぎ!!」


「え、事実じゃない?」


なぎは肩をすくめる。


「葵は騒ぐし、ひよりちゃんは静かすぎるし、真白は自覚ゼロだし」


ちらり、と真白を見る。


「……修羅場、育成環境としては完璧だね」


「育成って言うな!」


「いやぁ、読者的には美味しいでしょ?」


メタ発言。


だが、なぎの目は真剣だった。


(……もう始まってる)


(この静けさの裏で)


桜の席は、静かすぎる。


けれど。その静けさの中で──


確かに、感情は絡まり始めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る