仔羊メレと水の都の火吹き竜

月見 夕

羊の顔の魔法使い

 指の間から鉄の蜻蛉が飛び立つのを、私は祈るような気持ちで見送った。


 魔法なしで空を飛べたらどんなに素敵だろう。十二歳になっても魔法使いの才が発言しなかった私には、そんなのただの夢物語でしかない。

 けれど捻れたゴムの動力を活かしぺぺぺぺと羽ばたいていく手製の蜻蛉は、百三十五回目の投擲でようやく広場の噴水を飛び越えた。

「魔法なんかなくたって……アイデアと試行錯誤があれば誰だって空を飛べるんだから」

 丸眼鏡を持ち上げて得意げに胸を張ったけれど、調子に乗った瞬間に鉄蜻蛉は白い石畳に向かって急降下した。

 落ちる――と駆け寄ろうとした、その時。

「君の蜻蛉かな、よく出来てるね」

 墜落しかけた鉄蜻蛉を拾ったのは、白くて小さな羊……否、羊みたいにふわふわな白い癖毛の男の子だった。

 見た目は私の一つ二つ年下くらい。白い垂れ耳に、丸い金の瞳に横長の瞳孔。そして極めつけに、頭には渦巻みたいなクリーム色の巻き角がころんと二つ生えていた。

 首から下は普通の子供と変わらないシルエットなのに、明らかに人間とは違う出で立ち。この子はきっと獣人だ。

「あなた、魔法使い?」

「そう」

 特に表情を変えることなく、その子は頷いた。人間の中で魔法を使えるのはごく一部、でも身体の成り立ちが人間より妖精に近い獣人は、息をするように魔法を使うのだと学校の先生が言っていた。

 羊の子は捕まえたばかりの鉄蜻蛉を私に差し出した。

「僕は牡羊族のメレ。旅をしてるんだ。君は?」

「……アメリィ。七番街で雑貨屋をやってる」

 どきどきと胸が鳴るのを隠して、私はつとめて冷静にそう答えた。獣人を見るのは初めてだ。こんなに可愛い羊の顔をしたこの子もきっと、私には想像もつかないような魔法が使えるに違いない。

 危ないから近付いてはいけません、と言っていた先生の顔と「魔法が見たい」と期待を込めて騒ぐ私を心の中で天秤にかけていると、メレと名乗った羊の子は大きな欠伸をひとつした。

「アメリィ、今すぐ泊まれる宿を紹介してくれないか。僕は……とっても眠い」

「えっ、えっ、ここで寝ちゃうの!?」

 立ったまま今にも眠ってしまいそうなメレに、私は呆れて肩を貸した。



 メレが私のベッドで目を覚ますまで、たっぷり八時間もかかった。

「ふわぁ……よく寝た」

 本当にメレはよく寝た。日はとっぷり暮れて、もうすぐ日付が変わろうとしている。昼寝にしては長すぎだ。獣人は皆こんなに眠るものなんだろうか。寝床を貸している私の身にもなってほしい。

「えーと、君は――」

「アメリィよ」

「そう、アメリィ。ここは宿……ではなさそうだね。君の部屋?」

「正解。獣人の子なんて、宿屋に連れてったらびっくりされちゃうわ」

 メレはきょとんとした顔をした。獣人なんてそう珍しくもないだろうとでも言いたげだった。

 私はベッドのそばにある戸棚から、数日前に買った黒パンを取り出した。手のひらほどの大きさのそれを半分千切り、メレに押し付ける。

「はいこれ、私の晩ごはんと明日の朝ごはんだけど。稼ぎが少ないから小さいけど、よく噛めば半分こしたってお腹いっぱいになるわ」

「ああ、ありがとう。気持ちだけ……」

「遠慮しなくていいのよ」

「僕たち獣人は、固形物を食べないんだ。この世に満ちる魔力を吸って生きてる……」

 メレは寝ぼけ眼でむにゃむにゃと言う。そっか、人間とは何もかも違うんだ。

 私は焦げ臭いパンの欠片を急いで齧り、学校の先生が授業をするみたいに胸を張って聞いた。

「まずあなたのことを知る必要があるわ。ねえメレ、どうやって門番のいる関門を潜ってきたの?」

 帝国から遠い辺境にあるこの国には外から誰かが来ることは少なくて、物好きな誰かが入りたいと言っても簡単には入れてくれない。この子はどうやって入ってきたんだろう。

 メレは目を擦り、「ああ」と口を開いた。

「それはねえ、蜃気楼の魔法っていうのがあってね。誰にも見つからないように、姿をくらますことができて……」

「そんなことができるの!? ねえ、他には?」

 食い気味に乗り出す私に、メレは他にもこれまでの旅路で見てきた様々な魔法の話をしてくれた。

 鍋に乗って空を飛ぶ魔法使いの話や、雨をキャンディに変えてしまう魔法、深い湖の底に沈む神殿の女神様に教わった山の主を呼ぶ魔法……どれも私の想像の世界を遥かに超える話に、私は夢中になった。

「ちょっと待ってメレ、あなたいくつなの?」

「僕? 三百歳ちょっとかなぁ。牡羊族の中でもまだまだ子供なんだ」

「年を取らないのね。すごい、お伽噺みたい! 素敵!」

 勇気を出してメレを連れ帰ってきて良かった。こんなに外の世界がきらきらした場所だなんて知らなかったから。

 閉鎖的なのが安全なんだ、と大人たちは言う。

 けれどこの小さな国で生まれて死ぬのが当たり前だと言い聞かされて育った私にとって、外からやってきた旅人の、しかも魔法に関する話はどれも楽しいものばかりだった。

 次はどんな話を聞こう、と口を開きかけたその時、窓の向こうにランタンの灯りが揺れるのが見えた。

「――しっ、伏せて」

 うっかり夜更かしをしてしまった。そろそろお城の衛兵さんたちの見回りの時間だ。

 私は部屋の明かりを消して、革靴の足音が遠ざかるのを待った。

「どうかしたのかい?」

 布団に隠されたメレは、本物の羊みたいにふるふると頭を振って顔を出した。

「……メレ、起きたばっかりのところ悪いけど、早くこの国から出ていった方がいいわ」

「なぜ?」

「この国の王様は、余所者が嫌いなの。特に魔法使いは」

 真剣に言い聞かせたつもりだったのに、肝心のメレはきょとんとして布団から這い出た。

「そうなの? じゃあこんな寒い夜、どうやって火を灯すのさ」

 ベッドに座り込んだメレは、ローブの胸元から水晶の付いた小さな杖を取り出した。

 ひとつ振るうと――なんとメレの手のひらで、火の玉が赤々と灯った。

「ひっ……火だ……何もないところから……!!」

 火の玉は、メレの杖の動きに合わせて丸くなったりゴムまりみたいに弾んだりした。すごい、すごいんだけど、私ははらはらして窓の外とメレを交互に見た。

「早くそれを仕舞って! 衛兵たちが来る前に!」

「初めて見たような反応をありがとう。僕も披露しがいがあるよ」

「初めて見たわ! これが何もないところに火を灯す魔法なのね……」

 ようやく手のひらの火を消したメレは、丸い瞳をぱちくりさせた。

「……君だって魔法くらい使えるだろう?」

「使えないわよ。私、これでも人間よ?」

「人間もそう変わらずに使えるはずだけど。僕はあちこちを旅してきたけれど、人間は学校というところで算数や古語を習うのと同じように、魔法の使い方についても学ぶのだと聞いたことがあるよ」

「そんな授業……受けたことないわ。大人たちだって、魔法なんて誰も使えない」

 メレは何を言ってるんだろう。この国にはそんなことを教えてくれる人なんていない。

 それともメレの言う通り、国の外では人間が魔法を使えるのは普通のことなんだろうか。

「この街に来てから魔法を使う人がいなかったのは、そういうことか。皆マッチでランタン点けたりするのかなぁ」

「それはそうよ。私の雑貨屋でも、いちばん売れるのはマッチだもの」

 メレは不思議そうに首を傾げた。灯りを消した部屋で、月明かりに照らされた杖がきらきらと輝いている。私には縁のないはずのきらめき……だけどどうにも羨ましく思ってしまうのは何故だろう。

「皆が魔法を知らないのは……王様が魔法嫌いだから、かな?」

「そうかもね」

「アメリィ、君は魔法使いになりたいかい?」

 真っ直ぐにそう聞くメレに、私ははっと息を呑んだ。いつも眠たげな横長の瞳孔は、暗闇の中で丸く拡がって私を映している。

 瞳の中の自分に誓うように、私はひとつ頷いた。

「それは……もちろん。なれるのなら」

「そう」

 ひとつふたつ、とゆっくり瞬いたメレは、やがてふわりと柔らかく笑った。そういえば、メレが笑うところを見たのはこれが初めてだ。

「じゃあ僕が、この国に魔法を取り戻してあげる」

 真っ暗な部屋でも分かるくらい、メレの金色の瞳はお月様みたいにまん丸に輝いて見えた。

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