―人間界側・もう一つの視点―
聖ロムバルディア帝国の首都、聖都ルミナス。
その中心にそびえ立つ白亜の王宮に、一台の馬車が猛スピードで滑り込んだ。
馬車の扉が開くやいなや、転がり落ちるようにして出てきたのは、帝国全権大使マティアスである。
「陛下……! 皇帝陛下にお会いせねばならん! すぐにだ、一刻を争うのだ!!」
かつて不遜な態度で魔王城へ乗り込んだ男の面影は、そこにはなかった。
豪華な正装は泥と汗に汚れ、その顔は数十年も幽霊に追いかけ回されたかのように青白く、痩せこけていた。
「マティアス殿、一体何が……。使節団の他の方々はどうされたのですか?」
衛兵の問いに、マティアスはガチガチと歯を鳴らしながら、震える手で懐から一枚の包みを取り出した。
それは、魔王リリアが「食べろ」と差し出した、あのクッキーの食べ残しだった。
「……これだ。これを見ろ。……我々は、とんでもない怪物を呼び起こしてしまった……!」
♦︎
黄金の玉座に座る老皇帝アルフォンスと、居並ぶ閣僚たちの前で、マティアスは跪き、額を床に擦り付けながら報告を始めた。
「魔王リリア・フォン・ダークネス……。あの少女は、人の形をした災厄です。いや、災厄という言葉すら生ぬるい。彼女は、存在そのものが終わりの始まりでした」
マティアスの脳内では、魔王城での光景が凄まじい恐怖のフィルターを通して再生されていた。
「私が要求を突きつけた瞬間、彼女は微動だにしませんでした。……わかりますか? 私がどれほど挑発しようと、彼女はただ、ゴミを見るような、あるいは吹けば飛ぶ羽虫を眺めるような……神の如き虚無を湛えた瞳で私を見下ろしていたのです。あのプラチナブロンドは、犠牲者の魂を漂白した色に違いありません!」
閣僚たちの間に戦慄が走る。
「さらに、彼女は自らの魔力を誇示することすら厭いませんでした。突如として、その細い体から溢れ出した漆黒の魔力……。それは一瞬にして、彼女が纏っていた『概念の防壁(実際はクマ柄パジャマです)』を焼却し、魔王城の空間そのものを歪めたのです! 彼女は、我々を殺す価値すらないと、自らの衣を焼き捨てることで警告したのです。……『次はない』と」
マティアスは、震える手で差し出されたクッキーを掲げた。
「そして……これです。彼女は私に、この得体の知れない円盤状の魔導物質を食すよう命じました。……一口食べた瞬間、私の脳は快楽と恐怖で麻痺した! これは、食べた者の精神を内部から破壊し、魔王への絶対的な服従を植え付ける、禁忌の精神汚染兵器に他なりません! 私は、このクッキーの誘惑に抗うために、舌を噛み切る思いで逃げ帰ったのです!」
(※実際は、ただの美味しいバタークッキーであり、マティアスが食べ過ぎて胃もたれしただけである。)
御前会議の隅、影の中に静かに佇む少年がいた。
勇者エドウィン。
まだ16歳の彼は、帝国が隠し持っていた最終兵器である。
金色の髪と真っ直ぐな青い瞳を持つ彼は、物語の主人公としての輝きを放っていたが、その表情は険しかった。
(……自らの衣を焼き捨て、毒の菓子で精神を支配する魔王……)
エドウィンの腰に差した聖剣が、共鳴するように微かに鳴った。
彼は、マティアスの報告を鵜呑みにしたわけではない。
だが、これほどまでにプライドの高い大使を恐怖の底に突き落とす存在が、魔王城の玉座に座っているという事実は重かった。
会議の後、エドウィンは師である大魔導師カサンドラに問いかけた。
「先生。……魔王リリアとは、本当にそれほどの怪物なのでしょうか。マティアス大使の言葉には、多分に誇張が含まれているように思えます」
カサンドラは、古い書物を閉じ、深い溜息をついた。
「エドウィン。恐怖とは、時に真実よりも鋭く人を貫くものよ。だが、一つだけ確かなことがあるわ。……魔王家の血筋であるプラチナブロンドを継ぎ、あの若さで即位し、四天王を束ねている。それだけで、彼女が常軌を逸した『何か』を持っている証明になる」
「彼女は……笑っていたのでしょうか。人をいたぶる時」
「いいえ。報告によれば、彼女は終始『無表情』だったそうよ。……感情が欠落しているのか、あるいは、我々人間の感情など理解の範疇にないのか。……いずれにせよ、戦いは避けられないわ」
エドウィンは、拳を強く握り締めた。
彼には、故郷を魔族に滅ぼされた過去がある。
魔王がどれほど美しく、どれほど幼かろうと、それが世界の敵であるならば、倒さねばならない。それが勇者の宿命だからだ。
♦︎
マティアスの大げさすぎる報告は、瞬く間に人間界の諸国へと広まった。
「新魔王は、一睨みで都市を灰にする」
「新魔王が差し出す菓子を食べれば、一生その奴隷になる」
「新魔王のプラチナブロンドに触れた者は、瞬時に氷漬けになる」
デマは尾ひれを付けて膨らみ、リリアはいつの間にか、先代魔王をも凌ぐ冷酷非道な絶対神として定義されてしまった。
これを受けて、人間界の各国はこれまで続いていた小競り合いを停止し、『対魔王連合』の結成に動かざるを得なくなった。
リリアがお家でゆっくりしたいと願えば願うほど、外の世界では彼女がいつ攻めてくるかという恐怖で軍備が増強されていく。
皮肉なことに、リリアの人見知りと無言が、人間界に数百年ぶりの大団結をもたらしてしまったのである。
♦︎
一ヶ月後。
聖都ルミナスの大聖堂にて、勇者エドウィンの出陣式が行われようとしていた。
彼の背後には、帝国最高の精鋭たちが揃っている。
「エドウィン様。……準備はよろしいですか?」
傍らに控える聖女クラリスが、心配そうに彼を見つめる。
エドウィンは、自らの震える右手を見つめた。それは恐怖ではない。
自分に向けられた万人の期待と、これから戦う未知の怪物への高揚感だった。
「ああ。……魔王リリア。君がどれほどの深淵を抱えていようと、僕は退かない。君を、僕の聖剣が断ち切ってみせる」
同じ頃。
魔王城では、リリアが「お腹痛い……視察行きたくない……」とトイレに立てこもっていた。
人間界が、勝手に作り上げた「最強の魔王像」。
そして、本人の「絶望的なまでのヘタレ」。
この二つの歯車が、最悪の形で噛み合い、物語は加速していくことになる。
勇者は、まだ知らない。
自分がこれから戦いに行く相手が、「腹筋が0回で、クッキーのことしか考えていない引きこもり少女」であるという、残酷な真実を。
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