三好の心のツッコミ専属ラジオ

Aki Dortu

放送#01:満員電車—座れた日は運の前借り—

 満員電車で座れた日は、それだけで一日分の運を前借りした気がする。


 三好 恒一、四十六歳。整えるのは部屋じゃない。耳と呼吸だ。

 耳が先に世界を拾う。拾いたくないものまで。


 シートに腰をおろした瞬間、ポケットの中でイヤホンケースが小さく当たった。小さな小箱。三好にとっては境界線のスイッチだ。押せば外界が遠のく。押さなければ勝手に番組が始まる。

(今日は座れた。それだけで勝ち。そういう日も必要だ。)

 そう思った矢先、右斜め前から声が刺さってくる。

「だからさぁ、前から言ってるじゃん」

あ、来た。頭の中でジングルが鳴る。

――満員電車の心のツッコミ専属ラジオ、本日の第一部。

「は? それ今言う? てか、そっちだってさぁ」

痴話げんか、しかも声がよく通る。ここ、あなたたちの家のリビングじゃない――と言いたいが、言えるわけもない。公共の場は不思議だ。個人のドラマが急に共有物になる。

(公開裁判、開廷中。傍聴席、満席。)

心の中だけでツッコミを入れる。ツッコミを入れているうちは、まだ主導権がある。

笑って聞き流せるというより、状況の不条理で酸素不足になる。そこに酸素を入れている感じだ。言い争いは駅をまたいで、同じところをぐるぐる回り、最後は「もういい」に着地する。「もういい」と言った側が、一番言いたいことを残したまま。

次の駅で二人は降りた。ドアが閉まる寸前まで「だからさぁ」と「はぁ?」。

閉まった瞬間、車内に静けさが戻る。

(第一部、終了。助かった。これ以上続くと酸素不足になる。)


 ……が、二つ後の駅から、次の番組を容赦なく差し込んでくる。

「社会人としてさぁ」

――第二部。

左側から、低い声。このフレーズは人を小さくさせる。聞く側の息が浅くなる。

「昨日の資料は、前日までには用意しておくもんなんだよ」

三好よりも少し年下に見えるスーツの男が、隣の若い男に説教している。

怒鳴ってはいない。淡々としている。淡々としているからこそ、圧の逃げ場がない。

こういうのは、結構削られる。若い男の視線も下がってきている。

(社会人として、電車の中で説教しない、って項目はないんですか。)

 ツッコミが出た瞬間、胸の奥がチクリとする。

若い頃、三好もこういう声を浴びてきた。浴びて、飲み込んで、飲み込んだことを褒められた。耐えるのが正しい、という空気の中で泣く暮らしてきた。

 「俺なんか新人の頃、毎日終電まで残ってさ」

(その苦労話、会社の経費じゃなくて、あなたの人生の領収書なので、

 他人に譲渡しないでください。

 それと今は、終電間際まで仕事をする人は、仕事ができないレッテルを

 張られます。)


――ここで一度、境界線を引く。

三好はイヤホンを耳に入れて、音楽を流した。……流したはずなのに。

「……社会人として……」

聞こえる。音楽の向こうから、説教だけがしぶとく貫通してくる。

音量を上げれば耳が疲れるだけだ。

(ガードしているのに貫通。やたら電波が強い番組だな。)

三好はイヤホンを外した。

(イヤホンでは逃げられない。別の境界線、車両移動を使う。

ただ、それには一つ大きな問題がある。

――座れている。

満員電車で「座れている」はアドバンテージだ。降りる駅まではあと三駅。たった三駅、されど三駅。…うーん、悩む。でも、こういう時は俺のラッキーナンバー「三」に従おう。)意味なんてない。でも、こうでもしないとやっていられない日もある。

 三好はドアが開いた瞬間、立ち上がった。席を立った瞬間、胸の奥が「もったいない」と叫ぶ。座席ってこんなに惜しいものだっけ、と自分にツッコミたくなる。それに、ここに座り続けているほうが苦痛だ。三好はホームに出て、隣の車両に移った。

(……三を信じてみよう)

――第二部、フェードアウト。


 隣の車両は座れはしないが、先ほどの車両よりもやや余裕がある。

――そして、番組が差し込まれる。第三部。

「ねえ、昨日の合コン、やばかったんだけど」

前の座席に、女の子が二人座っている。声が明るい。さっきの説教と声の大きさは同じだけど、全然刺さらない。これは面白そうな予感がする。

(三、信じてよかった)

「一番タイプじゃないと思っていた人が、一番落ち着くの。意味わかんなくない?」

「分かる」と心の中で相槌を打ってしまう。相槌を打ってしまうぐらい聞き入っている自分がいるのが悔しい。 「タイプ」というのはただの入り口だ。付き合えるかどうかは中身の比重が大きい。距離感、声、間、沈黙の居心地。そういうものが合う人は、タイプの入り口を易々と飛び越えてくる。

「え、で? LINEしたの?」

友だちの声が前のめりになる。三好の意識も勝手に前のめりになる。立っているのに、心だけは隣に座って聞いている。

「それがさー」

来た、オチの前の溜めだ。そのタイミングでアナウンスが流れた。

「次は――」

三好の降りる駅だ。

(最悪だ、なんで今。今じゃないだろ。)

チャイムが鳴る。ここから先は二択だ。乗り過ごすか、降りるか。昔の自分なら乗り過ごしていたかもしれない。結末が欲しい。最後まで聞いて、自分の中で完結させたくなる。でも、今の三好には、もう一つルールがある。面白い会話は、降りた後に妄想で補完する。他人の人生を勝手に受信しすぎないための境界線。自分を守るための技術。

 三好はドアが開く瞬間に決めた。降りる。オチより生活。他人の物語より自分。ホームに降りた。降りる途中、女の子の声が一瞬だけ届いた。

「……無理しなくていいよ、って言われたの」

その一言だけ拾えた。残りの言葉は電車が連れて行ってしまう。三好は立ち止まった。胸の奥に熱いものがゆっくり落ちてくる。

「無理しなくていいよ」

それは、人に言われたい言葉で。でも本当は、自分で自分に言うべき言葉で。さっきまでの「社会人として」と、真逆の方法にある。削る言葉と、ほどく言葉。


――妄想モードが勝手に立ち上がる。

A:その男は言う。

  「無理しなくていいよ。今のままで、十分いい」

  女の子は泣く。泣いて笑って、「じゃあ、もうちょっとだけ、頑張らないでる」

  と言う。


B:優しさが怖くて、女の子が言う。

  「そういうことを言う人、信頼できない」

  男は困る。その困り方が真剣で信用になる。


C:実は彼は恋愛対象じゃない。店員か、先輩か、ただの友だち。でも、「無理しなくていいよ」と言われるだけで心に残る。恋よりも先に、心が救われる。


どれもありそうで、どれも違いそうで、だから面白い。

だから、ここで止める。


三好はスマホのメモを開き、三行だけ打った。

・社会人として=圧

・苦労の領収書の譲渡禁止

・無理しなくていいよ=自分にかけてあげる言葉


(ラジオ放送、以上。)


――次は、カフェだ。静けさは、だいたい売り切れている。

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