神の酒蔵

座間あぜん

1:来るな

彼女の家族は、代々山の中で酒蔵を営んできた一家だ。結婚の約束はしているが、籍を入れるのは、ここでいい酒ができた頃にしようと二人で決めている。今日はその第一歩として、俺が住み込みで働き始める日だった。天涯孤独の俺にとって、誰かの家に迎え入れられるというのは、それだけで胸がいっぱいになる出来事だ。


助手席の美咲は、山へ向かう道中ずっと楽しそうだった。信号待ちで車が止まったとき、不意にこちらを向いて笑い、「悠くん、これからは毎日一緒だね」と言う。その言葉が嬉しくて、思わず口づけた。軽いキスのつもりが、彼女が身を寄せてきて、自然と深くなる。唇を離しても、またすぐ重ねてしまう。彼女は小さく笑って、俺の胸元をつかんだ。「前見て」と言いながらも、拒む気配はなく、その体温が伝わってきて、胸の奥が熱くなった。


山道に入ると、携帯の電波はすぐに弱くなり、木々が一気に濃くなる。窓を少し開けると、冷たい空気と、どこか甘い発酵の匂いが流れ込んできた。「これが、うちの酒の匂い」と彼女は言う。有名で、うまいと評判の酒。その言葉を聞くたび、ここで生きていく実感が少しずつ形になっていった。


カーブの先、道の脇に白い作業着姿の人が立っているのが見えた。地元の人だろうと思った。こちらを見て、にこやかに笑っていたからだ。すれ違う瞬間、目が合った。その笑顔が、なぜか頭から離れなかった。次の瞬間、笑いながら、涙を流しているのが分かった。口は笑っているのに、目の端から雫がこぼれている。そして、はっきりと聞こえた気がした。


――来るな。


耳元ではなく、頭の内側で響いた声だった。反射的にブレーキを踏んだ。タイヤが砂を噛み、車が止まる。「どうしたの?」彼女が不思議そうにこちらを見る。ハンドルを握る手が、わずかに震えているのが分かった。「いや……今、人が」そう言って振り返ったが、そこにはもう誰もいなかった。ただ、山道と木々があるだけだ。俺はそれ以上、何も言えなかった。再び走り出すと、さっきの出来事は、現実から少しずつ遠ざかっていった。


酒蔵に着くと、木造の建物が山の影を背負って静かに佇んでいた。白壁は夕暮れを吸い込み、橙から藍へと色を変えながら、長い年月の重みを滲ませている。玄関には彼女の両親が並んで立っていて、揃って深く頭を下げた。父親は言葉少なだが目が穏やかで、母親は柔らかな笑みを絶やさない。「遠いところをありがとう」と何度も繰り返され、そのたびに胸の奥がきゅっと締まった。ここに迎え入れられた、という実感が遅れてやって来る。


夕飯の卓には酒粕を使った料理が並び、湯気と一緒に甘い香りが立ちのぼった。どれも滋味深く、山の水と時間が染み込んでいるような味がする。父親が徳利を傾け、名酒「白酔霞(はくすいか)」を注いでくれた。「家族になる前祝いだ」。口に含むと、柔らかな甘みの奥から芯のある苦味が立ち上がり、喉を過ぎるころには静かな余韻だけが残った。身体の内側に、ゆっくりと温度が灯る。


食後、廊下で美咲と二人きりになった瞬間、彼女が腕を引いた。壁際に背を預けた拍子に、強く唇が重なる。ためらいはなく、呼吸が混じるまで離れない。背中に回された手が確かめるように力を増し、こちらも肩口を掴んだ。やっと唇が離れても、額を軽く当てたまま、しばらく笑い合った。言葉はいらなかった。


今は、用意してもらった二人の部屋でこうして日記を書いている。障子の向こうは驚くほど静かで、風に揺れる木々の気配と、どこか遠くで虫や獣が短く鳴く音だけが、間を置いて届く。山に抱かれている、という感覚が強すぎて、時間の流れまで遅くなったようだ。山道で見た、作業着の男のことを思い出してしまう。笑っていたはずの顔から涙がこぼれて、「来るな」と確かに聞こえた。あれは疲れが見せた幻だ。そう決めておかないと、今夜は眠れない気がする。


明日から、ここで住み込みで働く。蔵の朝は早いらしい。いい酒ができた頃に結婚しよう、そう約束した。彼女の笑顔も、両親の歓迎も本物だった。だから今夜は、目を閉じる。外の音に耳を澄ませながら、ここがこれからの居場所なのだと、何度も心の中で言い聞かせる。

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