第3話

 唐突に、カーテンの隙間をすり抜ける朝日に起こされる。


 七年前、彼女とお茶を飲んだあの日以来、不思議とあの夢は見なくなった。


 味噌汁の香りがする。

 具はアサリに違いない。


 あの日、僕のことが知りたいと言っていたはずの彼女はずっと自分が見てきたものについて話し続けていた。

 今だからわかる。彼女も、きっと緊張していたのだ。


 彼女は見た目に似合わず、ADMS社会に対して老人のようなわがままをこれでもかと口にした。

 もっとこうすればいいのに。

 もっと、こんなものがあったはずだと。


「ADMSが導入される際には大きな社会的摩擦があったみたいだね」

「そうよ!みんな人から監視されるなんて嫌だったのよ!」

 我々の世代からするとその話はどこか不気味に聞こえる。

 監視を嫌がるという感覚自体が、もはや実感として理解できない。

「導入当初は運用範囲が限定的だったことは義務教育で習ったけど、より合理的な現在の形へ移行するのにそれほど時間を要さなかったのは必然だったんじゃないかな」

 僕も緊張して余計な口を滑らせてしまったような気がする。

「あなた、週刊少年ジャンプを読むべきよ」

 今のADMSに否定的な彼女は、黎明期から移行期にかけて記録されたトランザクションに強い興味を持っていた。


 かつてのトランザクションはブロックチェーン技術を用いて金銭の授受や契約を透明化するためのものだったそうだが、透明化されたデータの蓄積によって社会は合理化され、更なる合理化への渇望から、ADMS以降はあらゆるデータがトランザクションという名で蓄積・整理・公開されるようになった。

 もっとも「監視への抵抗」を担保する必要のあった時代を時代を超えた今、その透明性に意味を見出す者は、少なくとも太郎の知る限り彼女しかいなかった。


「アサリでしょ」

「匂いでわかるもの?」

「わかるよ。昨日、風呂場で砂抜きしてたでしょ」


 ADMSが食事の栄養バランスを管理するようになって久しいが、彼女はいまだに味噌の濃さにこだわる。

 理由を聞いたことはない。おそらく、理由なんてないのだろう。


 彼女はいつものように、昨夜一緒に読んだトランザクションの感想を求めてくる。


「どうしてゾロはウソップが帰ってくるのを嫌がったのかな?」

「合理的に考えれば、チームの秩序を乱す者を受け入れる方がどうかしてる」

「あはは。こんな暮らししてる人がADMSみたいなこと言ってる。」


 太郎と花子は人里離れた山村で、半ば自給自足のような生活をしていた。

 過去のトランザクションから知った「キャンプ」をしてみたいという花子のわがままから始めた真似事だったが、今では必要に迫られてのことでもある。


「食洗機くらいまだあるだろうから、取り寄せておこうか?」

 シンクに立つ花子に尋ねてみる。


「わたし、機械って嫌いよ。硬いんだもの。」

 理由はなさそうなのでそれ以上は聞かない。



 経済的な余裕は使いきれないほどにあったが、ADMS社会は深刻な資源不足に悩まされており、かつては少し困れば頼っていたADMS配送サービスも使える頻度は年々減っていった。

 社会がこの状況にどれほど合理的に対応しているのか、花子にとっては興味の対象外だった。


 二人は、非合理な生活を楽しんでいた。


「それじゃぁ少し仕事をしてくるよ」

「仕事なんてしなくてもいいのに」


 太郎は困った笑顔を残し、自室に消える。

 実際、彼がすべき仕事といえば畑仕事か漁だが――もっとも彼らはそれを仕事とは言わない――それもしばらくの蓄えはある。


 太郎はADMS社会に密かな責任を感じている。

 あれからもずっと自分の元いた職場から記録・発信されるトランザクションを追い続けていた。

 今ADMSが深刻な資源不足のために求めているのはEarly Vanish Economy、通称EVEと呼ばれるシステムだ。

 ADMSは資源不足を補うためにかなりの数の簡易核発電所を急造したが、今はそこから出る核廃棄物のやり場に悩まされている。

 EVEは放射能汚染を直ちに浄化する夢のシステムであり、近い将来にこの完成が示されているADMS社会に危機感はない。


 この7年間、花子とともに過去のトランザクションに触れてきた太郎は、潜在的な問題に対する改善や改修を視野に入れようとしない、ADMS社会の先天的な欠陥に気づいている。

 不老不死という「人類の悲願」が既存の技術と情報の組み合わせで可能であったはずなのに、太郎の非合理的行動が起こした偶然からしか生まれなかったのもこのためだ。


 不老不死の時と同様、EVEが完成した後のことまでは誰もシミュレーションしないだろう。

 いや、ADMSだけはそれをシミュレーションし、ADMSが最もミニマム且つ自律的に社会システムを維持する道を選ぶだろう。

 もしかすると太郎に不老不死を完成させたこともこの結末に向かう動線だったのかもしれない。


 太郎のシミュレーションは何度走らせても同じ地点に収束した。


 不老不死によって減らなくなった人口。

 資源は有限。

 安定を維持するための、最小の操作。


 その操作が何を意味するのか、太郎には理解できてしまった。

 どんな変数を与えてみてもこの結論は変わらない。


 どれだけの時間悩んでいたかわからないが、業を煮やした花子が突然部屋のドアを開けた


「ねぇ!!コロコロコミックっていうトランザクション知ってる!?!?」

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