第4話:負け組の晩餐
私たちは、光の当たらない路地裏のベンチに座っていた。
メインストリートの華やかな喧騒が、遠くからくぐもって聞こえてくる。
BGMはマライア・キャリーの『恋人たちのクリスマス』。
でも、私たちの目の前にあるのは、プラスチックのパックに入ったたこ焼き(八個入り六百円)と、コンビニで買った缶ビール(エビス、350ml)だ。
風が吹くと、ビルの隙間からゴミの臭いと、たこ焼きのソースの匂いが混ざり合って漂ってくる。
これが、私たちのクリスマスディナーの会場だ。
「はい、あつこさん。熱いから気をつけて」
彼が爪楊枝を刺したたこ焼きを差し出してくる。
湯気が立っている。
ソースとマヨネーズがたっぷりとかかり、かつお節が生き物のように踊っている。
正直、さっきキャンセルした高級フレンチのフォアグラよりも、今の私の胃袋には魅力的だ。
「……いただきます」
口に入れる。
ハフハフ。
熱い。
中のトロッとした生地が、舌を火傷させにかかってくる。
「んぐっ、あつっ……!」
でも、美味しい。
濃厚なソースの暴力的な旨味と、マヨネーズのコクが、荒んだ心にじゅわっと染み渡る。
化学調味料バンザイ。
今の私に必要なのは、繊細なハーブの香りじゃなくて、このガツンとくる下世話な味だ。
「……うまっ」
思わず声が出た。
「でしょ? ここの屋台、結構有名なんだよ。……ほら、ビールも」
彼がプルタブを開けたエビスを渡してくる。
「……ありがとう」
一口飲む。
冷たい炭酸が、熱々のたこ焼きで火傷しかけた喉を通過していく。
キレのある苦味。
ぷはーっ。
最高だ。
カイロなんかより、よっぽど身体が温まる気がする。
「うまい……生き返る……」
彼も頬張って、熱さで目を白黒させている。
眼鏡が湯気で少し曇っている。
そして、口の端に青海苔がついている。
子供か。
四十半ばの男が、たこ焼きで口の周りを汚して。
「……ねえ、青海苔ついてるよ」
「えっ、どこ? こっち?」
「右。……違う、そっちじゃない。反対」
彼は慌てて指で拭うが、見当違いの場所を擦っている。
「もう、じっとしてて」
私は自分の指で、彼の口元の青海苔を拭ってやった。
彼がドキッとした顔をする。
私も、少しドキッとした。
四十代の指と、四十代の口元。
カサカサした肌触り。髭の剃り跡のジョリッとした感触。
決して「綺麗な肌」ではない。
でも、生々しくて、嫌じゃなかった。
「……ありがとう」
彼は照れくさそうに笑った。
その笑顔を見て、私はふと、さっきの元妻の言葉を思い出した。
『お似合いよ』
あの嘲笑。
でも、今、こうして二人でハフハフしながらたこ焼きを食べている姿は、確かに「お似合い」なのかもしれない。
あんな気取ったフレンチで、ナイフとフォークの音に気を使いながら食事をするより、こうして路地裏で肩を寄せ合っている方が、しっくりくる。
「俺たち、負け組だな」
彼がポツリと言った。
自嘲気味な笑みを浮かべて、缶ビールを見つめている。
「……そうね。完敗よ」
私も認めた。
元妻には勝てない。
あの若さにも、美貌にも、経済力にも勝てない。
彼女は今頃、温かいレストランで、夜景を見ながらシャンパンを飲んでいるだろう。
私たちは、吹きっ晒しの路地裏で、発泡酒(あ、エビスだった)とたこ焼きだ。
世間的に見れば、惨めな敗北者だ。
「でもさ」
彼がたこ焼きの最後の一つを摘まみながら言った。
その目は、遠くのネオンサインに向けられている。
「俺、あっちより、こっちの方がいいや」
「え?」
「あの綺麗な奥さんと、緊張して味が分からないフレンチ食べるより、あつこさんとこうやって、鼻水垂らしながら『熱い熱い』って言って、たこ焼き食べてる方が、なんか落ち着くんだ」
「……何それ。褒めてるの? 鼻水って余計なんだけど」
「うん。最高の褒め言葉だよ」
彼は真面目な顔で言った。
嘘のない、真っ直ぐな言葉だった。
「俺、無理してたんだと思う。前の結婚生活でも。……いい夫になろうとして、背伸びして、高い店予約して、高いプレゼント買って。でも、結局ボロが出て、愛想尽かされて」
「……」
「かっこ悪いところ見せたくなくて必死だった。……でも、あつこさんの前だと、ボロが出てもいいかなって思える。怒鳴られても、呆れられても、それでも一緒に食べてくれるから」
笑ってないわよ。
さっきまで鬼の形相で怒鳴り散らしていたわよ、私。
でも、見捨てないでここにいる。
たこ焼きを分け合っている。
それが答えなのかもしれない。
「……私だって、別に完璧じゃないし」
私は残りのビールをグイッと飲み干した。
空き缶を握りつぶす。
「更年期だし、イライラしてすぐ怒鳴るし、貯金だってそんなにないし。……貴方のことバカにしたけど、私だって似たようなものよ」
「うん、知ってる」
「知ってるの!?」
「あつこさん、酔うと言うもん。『老後が不安だー! 孤独死したくないー!』って」
「うわ、最悪。記憶にない」
顔から火が出るかと思った。
でも、不思議と恥ずかしさはなかった。
全部バレてるなら、もうカッコつける必要もない。
鎧を脱ぎ捨てて、パンツ一枚になったような開放感だ。
「……慰謝料、あとどれくらいあるの?」
私は核心に触れた。
これを避けては通れない。
「……あと、五年。娘が大学出るまで。……正直、キツい」
「五年か」
長いようで、短いかもしれない。
私たちが五十代になる頃には終わる。
定年までには完済できる。
「……私が、半分払ってあげようか?」
「えっ!?」
彼が飛び上がった。
たこ焼きのパックをひっくり返しそうになる。
「嘘よ。払うわけないでしょ。あんたの借金なんだから。自分が作ったツケは、自分で払いなさいよ」
「だ、だよね……ビックリした……」
彼は胸を撫で下ろした。
でも、その顔には、少しだけ安堵の色が見えた。
「でも」
私は空になったパックとビールの缶をゴミ袋に入れた。
結び目を固く縛る。
「払い終わるまで、付き合ってあげる」
「えっ」
「監視役よ。ちゃんと払ってるか、無駄遣いしてないか、変な女に騙されてないか。……あと、寂しくて死なないように」
上から目線で言ってやった。
素直に「ずっと一緒にいたい」なんて言えないから。
「あなたを支えたい」なんて綺麗な言葉は、私のキャラじゃないから。
彼は驚いた顔をして、それからクシャクシャに顔を崩して笑った。
目尻の皺が深い。
涙が滲んでいるのは、寒さのせいだけじゃないだろう。
「……ありがとう。あつこさん。……本当に、ありがとう」
「湿っぽいのはなし。……寒くなってきたから、もう帰るわよ。風邪引いたら医療費かかるし」
「うん」
私たちはベンチを立った。
足が冷えて、感覚がない。
「いてて……」
彼が腰をさすりながら立ち上がる。
「大丈夫? 貸して」
私は彼の方を貸してやった。
おじいちゃんとおばあちゃんだ。
でも、彼は自然と私の手を取った。
今度は、おずおずとじゃなく、しっかりと。
指を絡ませて、ギュッと握ってきた。
「……ヌルヌル、乾いたね」
「うん。……あつこさんの手、温かい。カイロじゃなくて、あつこさんの体温だ」
「余計なこと言わなくていいの」
「へへ……」
二人で笑った。
キスはしなかった。
口がソースと青海苔とビール臭いし、私も彼も、疲労困憊だったから。
そんな気力も体力もない。
今はただ、温かい布団に入って眠りたい。
ただ、繋いだ手のひらから伝わる体温だけが、リアルだった。
イルミネーションの光よりも温かくて、確かなもの。
この手が、これからの五年、十年、もしかしたら死ぬまで、私を繋ぎ止めてくれる命綱になるのかもしれない。
これが、私たちのクリスマス。
汚くて、痛くて、貧乏くさくて、どうしようもないけれど。
一人でコンビニ弁当を食べるよりは、マシな味がした。
いや、結構美味しかったかもしれない。
たこ焼きも、一緒に飲む安いビールも、そしてこの泥臭い人生も。
「……来年は、家で鍋にしよっか」
「だね。……カニ、奮発するよ。スーパーのだけど」
「期待しないで待ってるわ。……あ、でも白菜は私が買うわ。高いから」
「生活感あるなぁ」
私たちは、光の当たらない路地裏から、ゆっくりと駅へ向かった。
元妻のことも、慰謝料のことも消えたわけじゃない。
明日からまた、厳しい現実が待っている。
でも、今はただ、隣に同じ歩幅で(ちょっと遅いけど)歩く人がいること。
それだけで十分だと思えた。
「……あつこさん」
「ん?」
「好きだよ。……元妻より、ずっと」
「……はいはい。知ってる。……私も、まあ、嫌いじゃないわよ」
私の心の中で、小さな温かい灯りがともった気がした。
それはLEDみたいに眩しくはないけれど、
ろうそくの火のように、揺れながらも消えない、生活の匂いがする灯りだった。
(第4話完)
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