第2話:元妻のマウント砲


「あら、元気そうじゃない」


 元妻の言葉は、完璧な社交辞令だった。

 声のトーン、少し首を傾げる仕草、口元の弧の描き方。すべてが計算され尽くした、上品な大人の女性の振る舞い。

 でも、その奥に隠された「私と別れて、随分老けたわね」という強烈な皮肉を、私は敏感に感じ取ってしまった。


 女の勘、というやつだ。

 いや、勘なんて高尚なものじゃない。

 単純に、見た目の「格差」が歴然としすぎていたからだ。


 彼女の肌は、内側から発光しているように艶やかだ。

 美容医療に相当な課金をしている肌だ。ハイフか、ボトックスか、あるいは私の知らない最新技術か。

 隣の旦那らしき男も、シュッとしている。

 加齢臭なんて微塵もしない。高級なオーデコロンと、成功者のフェロモンしか漂わせていない。


 対して、私たち。

 ユニクロのダウン(彼)と、五年前に買ったセール品のコート(私)。

 背中と腰にカイロ。

 手はハンドクリームと手汗でヌルヌル。

 そして、寒さと緊張で鼻水が出そうになっている。


 負け戦にも程がある。

 同じ種族の生き物とは思えない。


「あ、ああ……そっちも、元気そうで」


 彼が絞り出した声は、情けないほど裏返っていた。

 しかも、声が小さい。雑踏にかき消されそうな、蚊の鳴くような声だ。

 視線も泳いでいる。

 地面を見たり、元妻のコートのボタンを見たり、決して目を見ようとしない。


 ダメだ。

 完全に飲まれている。

 蛇に睨まれたカエルどころか、ティラノサウルスに踏まれたミミズ状態だ。


 私は咄嗟に、彼の手を強く握り返した。

 爪が食い込むくらい強く。

「しっかりしなさいよ!」という無言の喝を入れる。


 ここで負けたら、私たちの中年恋愛が、ただの「残り物同士の傷の舐め合い」だと認めることになる。

 いや、実際そうなんだけど。

 それは認めるけど。

 でも、あんな勝ち誇った元妻に見せつけるためだけにでも、虚勢を張らなきゃいけない時がある。

 たとえそれが、どんなに痛々しい虚勢だとしても。


「初めまして」


 私は精一杯の作り笑いを浮かべ、一歩前に出た。

 口角を上げるのに、顔面の使っていない筋肉が悲鳴を上げる。

 痙攣しそうだ。


「彼の、パートナーのあつこです」


「パートナー」なんて横文字、日常で使ったことない。

 普段は「飲み友達」とか「腐れ縁」とか言っているくせに。

 でも、「彼女」と言うには年甲斐がないし、「付き合ってる人」だとなんか軽い。

「妻」と言えるほどの法的拘束力もない。

 苦し紛れの選択だった。


 元妻の視線が、私を頭の先から足の先までスキャンする。

 スーパーのレジでバーコードを読み取るような、無機質で正確な視線。

 値踏みだ。

 私の年収、若さ(ないけど)、肌のハリ(ないけど)、服装のセンス(ユニクロ混じり)、そしてバッグのブランド(アウトレット品)。


 数秒の沈黙。

 その数秒が、永遠のように長く感じられた。

 彼女の脳内で、私の査定が行われている。

『D判定:再検査の必要なし、廃棄処分』


 そんなテロップが見えた気がした。

 そして、彼女はふふっと笑った。


「そう。よかったわね、タカシさん。いい人が見つかって。……お似合いよ」


「お似合い」。

 その言葉が、鋭利な刃物のように胸に刺さる。

「お似合い」という言葉に、ここまで悪意を込められる人間がいるなんて。


 それは「どっちもどっちね」という意味だ。

「地味で貧乏くさくて疲れ切った中年同士、底辺で仲良くやんなさいよ」という、上からの慈悲深い侮蔑だ。


「どうも」


 私は引きつった笑顔のまま、短く答えるのが精一杯だった。

 言い返したい言葉は山ほどある。

「あなた性格悪いですね」とか、「整形してます?」とか。

 でも、言葉が出てこない。

 圧倒的な敗北感に、喉が詰まっていた。


「じゃあ、私たちは予約があるから。……行くわよ、ケンジさん」


 元妻は隣の男の腕に、自然としなだれかかった。

 その仕草が、あまりにも洗練されていて、映画のワンシーンみたいだった。

 それに比べて、私たちがさっきまでやっていた「介護歩き」はなんだったのか。


 そして、去り際に彼女はもう一度、彼を見た。

 捨て台詞のように、でも絶対に聞き逃せない音量で、彼女は言った。


「あ、そうそう。あの時の慰謝料、まだ半分残ってるから。……今月分、まだ振り込まれてないみたいだけど? 忘れないでね」


 爆弾を落として、彼女は優雅に光の向こうへ消えていった。

 香水の残り香だけを残して。


 慰謝料。

 半分。

 残ってる。

 今月分、未納。


 その単語が、イルミネーションの光よりも鮮烈に、脳内で点滅する。

 パニック映画のエマージェンシー・ライトのように。


 私はゆっくりと、隣の彼を見た。

 彼は真っ白な灰になっていた。

『あしたのジョー』のラストシーンみたいに、魂が抜けていた。

 ただ、ジョーと違うのは、彼が戦って燃え尽きたわけではなく、単に現実から逃避して思考停止しているだけだということだ。


「ねえ」


 私は低い声で言った。

 握っていた手が、冷たくなっている。


「……説明、してくれる?」


 彼はビクッと震え、それから壊れたブリキのおもちゃのように、ギギギ……と首を私に向けた。

 その目は、完全に泳いでいた。

 クロールで、彼方まで泳いでいた。

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