第2話:シュトーレン熟成中


十二月に入り、街は急速にクリスマスモードに突入した。

独身中年女にとって、一年で最も呼吸がしづらい季節の到来だ。

スーパーに行けば「パーティーメニュー特集」のポップが踊り、

テレビをつければ「恋人と過ごすクリスマス」の特集ばかり。

「恋人がサンタクロース」なんて歌詞が聴こえてくるたびに、「サンタなんていねえよ、アマゾン配達員だよ」と心の中で毒づく日々。


そんな中、私のスマホは意外なほど賑やかだった。

『田中』からのLINEだ。


『あつこさん、これ見てください! 試作品1号です!』

写真が送られてくる。

黒い塊。

どう見ても、焼きすぎた隕石だ。


『……香ばしそうですね』

大人の対応で返信する。


『あつこさん、ドライフルーツのラム酒漬け、一週間漬けろって書いてあるんですけど、三日じゃダメですかね? 我慢できなくて』

『ダメです。待ってください』

『はい! あつこさんに言われたら待ちます!』


まるで駄犬だ。

待てと言われたら待つ。

でも、尻尾を振っているのが文面から透けて見える。


週に一度のパン教室以外でも、彼とのやり取りは続いた。

内容は主にパンの話(という名の失敗報告)と、娘の話、そして腰痛と尿酸値の話だ。

色気もへったくれもない。

でも、仕事終わりの疲れた脳には、彼の単純で裏のない言葉が、妙に心地よかった。


「あつこさん、最近スマホよく見てるわね」

職場の後輩に指摘された。

「え? そう?」

「なんか、表情が柔らかくなりましたよ。……もしや、彼氏ですか?」

「まさか。……ただの、パン友よ」

「パン友? 新しいマッチングアプリですか?」

「違うわよ」

否定しながら、少し動揺している自分がいた。


彼氏? 田中さんが?

ないない。ありえない。

あんな冴えない、不器用で、金もなさそうな(失礼)、ファッションセンス皆無の中年男だ。

私の好みは、もっとシュッとした、知的な……かつての婚約者のような……。

いや、止そう。

あいつは私を捨てたクズだ。

それに比べて、田中さんは。

私の黒いニットについた粉を、必死で払おうとしてくれた。

私の返信ひとつで、一喜一憂してくれる。

「あつこさんに食べさせたい」と、黒焦げの隕石を量産し続けている。


ある日、パン教室の帰りに、駅前のカフェに入った。

彼が「相談がある」と言うからだ。


「実は……クリスマスイブ、空いてますか?」

コーヒーを飲みながら、彼が切り出した。

カップを持つ手が震えている。

小刻みな振動が、コーヒーの表面に波紋を作っている。


「……特に予定はないですけど」

強がったわけではない。事実だ。

予定なんて、ここ数年「一人で高いワインを開けて、明石家サンタを見る」しかない。


「もしよかったら……その、僕の手作りシュトーレン、受け取ってくれませんか?」

「シュトーレンを?」

「はい。完成品を。……あと、もし良ければ、食事でも」

彼の顔が赤い。

店内の暖房のせいか、更年期のせいか、それとも照れか。

額に汗が滲んでいる。

加齢脂のテカリとともに。


私は少し迷った。

イブにデート。

それは、一線を超えることだ。

単なる「パン友」から、「イブを一緒に過ごす男女」への昇格(あるいは降格)。

この歳で、そんな面倒なことに足を踏み入れていいのか。

傷つくのも、失望するのも、もう嫌だ。

彼に対しても、自分に対しても。


でも。

「……いいですよ」

口が勝手に動いていた。

「本当ですか!?」

「はい。ただし、シュトーレンが黒焦げだったら帰りますからね」

「が、頑張ります! 最高傑作を作ります!」


彼は嬉しさのあまりか、コーヒーを飲み干そうとして、気管に入れたらしい。

「ブフォッ! ……ゲホッ、ゲホッ!」

盛大に咳き込んだ。

周りの客が冷ややかな視線を送る。

「汚い……」

私は呟きながら、紙ナプキンを渡した。

「すみません……ゲホッ……あつこさん、優しい……」

涙目で私を見る彼。

その情けない顔を見て、私はため息をつきつつ、少しだけ笑ってしまった。


本当に、手のかかるおじさんだ。

でも、一人で完璧に生きている(つもりの)私には、この「隙だらけ」の存在が、必要なのかもしれない。

心の隙間を埋めるのは、高尚な芸術や高価な宝石じゃなくて、

こういう「どうしようもない人間味」なのかもしれない。


帰り道、イルミネーションが輝く街路樹の下を二人で歩いた。

「綺麗ですねえ」

「そうですね」

「あつこさんの方が綺麗ですけど……なんて、あはは」

昭和のナンパ師みたいなセリフを吐いて、自分で笑って誤魔化す彼。

寒いはずの風が、少しだけ温かく感じた。


しかし、私は知らなかった。

彼が「最高傑作」と豪語するシュトーレンに、とんでもない秘密が隠されていることを。

そして、このロマンチック(になりかけた)なイブが、

カビと脂汗にまみれた地獄絵図に変わることを。


運命の十二月二十四日まで、あと一週間。

彼からのLINEが届く。

『シュトーレン、焼き上がりました! これから一週間、熟成させます! 楽しみにしててください!』

熟成。

そう、熟成。

本来シュトーレンは、焼いてからしばらく置いて、味を馴染ませるものだ。

しかし、保存方法を一歩間違えれば、それは「熟成」ではなく「腐敗」へのカウントダウンとなる。

湿度、温度、そして衛生管理。

ズボラで不器用な中年男に、厳密な管理ができるはずがなかったのだ。


私の知らぬところで、菌たちは静かに、確実に繁殖を始めていた。

私の淡い恋心を食い荒らすかのように。

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