第2話 やり直しの朝



次に目を開けたとき、

そこはまだ、まだ彼女と笑い合っていたあの日の朝だった。

天井のシミの形、カーテンの柄、掛け時計の音——どれも懐かしい。

 けれど、確かに何かが違う。


 カレンダーの日付を見て息をのむ。

 二年前。

 俺とさきが、まだ一緒に暮らし始めたばかりの頃だ。


 頭の中に昨夜の光景がよみがえる。

 あの公園、あの老人。

「若いのに、寒い夜を選ぶのかね」

 ——あの言葉を最後に、光に包まれた。

  


 キッチンから、味噌汁をかき混ぜる音がした。

 胸が高鳴る。

 まるで夢の中を歩いているみたいに、足が勝手にそっちへ向かう。


 そこにいたのは、さき。

 髪をひとつに束ねて、エプロン姿。

 ふり返った瞬間、笑った。


「おはよう、寝坊だよ」


 その声が懐かしくて、

 一瞬、息の仕方を忘れた。

 

「……おはよう」


 それだけ言うのがやっとだった。



 テーブルには、焼き鮭、味噌汁、卵焼き。

 あの頃と同じ朝食。

 俺は箸を手に取りながら、彼女の横顔を見つめた。


 この朝も、本当なら

 俺は何も言わずに出勤して、

 それを当たり前みたいに受け流していたはずだった。


 でも今なら、言える。


「……いつもありがとな」


「え?」


「朝、こうやって作ってくれて。

 夜、俺がいないのに、ちゃんと起きてくれてさ」


 さきは少し驚いて、目を瞬かせた。


「どうしたの、急に?」


「なんか……言いたくなっただけ」


 彼女は一瞬笑いかけて、

 照れくさそうに顔をそむけた。


「そんなの、普通でしょ」


「普通だから、言えてなかったんだと思う」


 その瞬間、彼女の表情が柔らかくほどけた。

 湯気の向こうで微笑むその顔が、

 少しだけ、あの頃より温かく見えた。



 出勤の支度をして玄関に立つと、

 さきが見送りに来た。


「いってらっしゃい」

「行ってきます」


 その声に、ほんの小さな変化があった。

 たった一言でも、世界が少し違って見えた。



 夜。

 公園のベンチに腰を下ろす。

 あの老人の姿はどこにもない。

 ただ、ベンチの上に落ちた枯れ葉の上で、

 小さな砂粒がかすかに光っていた。


 ゆっくりと手のひらに拾い上げる。

 ポケットの中の砂時計の中で、

 その砂が静かに混ざり合った。


「何度やり直しても、心までは変えられん」


 老人の言葉が風の音にまぎれて聞こえる。


 でも、その言葉は、

 胸の奥に沈んだままだった。

 


 夜風の中、ひとり呟く。


「ありがとう......さき」


 遠くのアパートの明かりのひとつが、

 静かに灯っていた。




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