第3話 焼肉
「第三回も参りましょう。親子料理対決、今回は――焼肉です」
「ずいぶんシンプルに来ましたね」
「シンプルだからこそ誤魔化しがきかない。焼肉は素材、火、時間、この三つしかない料理です」
「しかも歴史を辿ると面白いんですよね」
「ええ。焼肉は日本の家庭料理として定着するまでに、外食文化、在日文化、戦後の鉄板文化を経由してきた。家庭で焼くという行為自体が、実はかなり後発なんです」
「外で食べるものだった、と」
「そう。だから家庭で焼肉をやると、火加減や焼き加減に“正解”を持ち込もうとする人が出てくる」
「正解を押し付ける人」
「はい。肉は個体差がある。脂の入りも厚みも違うのに、同じ焼き方を要求するのは、だいたいトラブルの元です」
「親子対決には向いてますねえ」
「向いてます。しかも焼肉は“待てない料理”です。待った瞬間に焦げる。待たなければ生。判断が遅れたら終わり」
「判断力が問われる」
「沈黙が長い人ほど、不利になる可能性もあります」
「……」
「……」
「では、調理を始めてください」
焼肉。あまりにも普通で、あまりにも家庭的な言葉だ。その瞬間、俺の中で一気に記憶が噴き出した。フグみたいに特別じゃない。タピオカみたいに流行でもない。焼肉は、俺の家の食卓そのものだった。だからこそ、逃げ場がない。
鉄板が温まり、肉が並べられる。その匂いだけで、胸の奥がざわつく。母さんは焼き加減が甘かった。いつも。焦がすのが怖くて、裏返すのが早い。宗玄はそれが気に入らなかった。気に入らない、と言えばいいのに、言わない。言わずに、箸を置き、無言で肉を見つめる。その沈黙が、母さんを追い詰めた。
「まだだ」
父が言う。短い。命令でも助言でもない。ただの断定。
あの日もそうだった。母さんが肉を返そうとした瞬間、宗玄は「まだだ」と言った。母さんの手が止まり、肉は一瞬で黒くなった。焦げた。焦げた瞬間、宗玄は箸を置き、立ち上がり、ちゃぶ台をひっくり返した。肉も皿も、全部床に落ちた。言葉はなかった。ただ、その音だけが家に残った。
俺はその場で何も言えなかった。言えなかった自分も、宗玄と同罪だ。そう思い続けてきた。焼肉は、俺にとっては料理じゃない。事件だ。
鉄板の上で肉が音を立てる。脂が跳ねる。時間が過ぎる。過ぎすぎる。俺は焦る。焦るほど、焼き加減がわからなくなる。母さんも、きっと同じだった。焦げさせたら怒られる。生だったら怒られる。正解はどこにもないのに、宗玄は正解を知っている顔をする。
「火、強い」
父の一言が落ちる。その瞬間、空気が歪んだ。
音が伸びた。ジュウ、という肉の焼ける音が、ありえないほど長く引き延ばされる。照明が白く滲み、背景が流れ始める。時間が、加速している。理解するより先に、世界が進んでいく。鉄板の上の肉が、一瞬で色を変え、黒く縮み、炭になる。
視界の端で、誰かが祈っているのが見えた。神父だ。白い襟、狂った目。聞いたことのある言葉を叫んでいる。メイド・イン・ヘブン。意味はわからないが、意味がないことだけはわかる。時間が走り出し、止まらない。
俺の肉は、全部黒焦げになった。返す暇もない。判断する前に、結果だけが来る。母さんの焼肉と同じだ。焦げた肉を前に、何も言えずに立ち尽くすしかなかった、あの夜と同じだ。
その横で、宗玄は一切慌てない。時間が加速しているはずなのに、宗玄の動きだけが通常速度で存在しているみたいだった。肉を置き、返し、皿に取る。その一連の動作が、ありえないほど正確だ。焦げない。生でもない。一瞬で、最適な焼き加減を掴んでいる。
次の瞬間、宗玄の足元が消えた。別の世界だ。背景が切り替わり、宗玄だけが、違う風景の中に立っている。それでも、宗玄は気にしない。肉を見る。焼き加減を見る。それだけだ。
俺は立ち尽くし、黒焦げの肉を見下ろしながら、確信した。これは偶然じゃない。焼肉のルーツも、家庭の記憶も、時間加速も、全部つながっている。
「時間が加速して焼き加減が一瞬で壊れたこの現象は――久我宗玄のやつの《母さんの焼き加減に文句も言わずちゃぶ台をひっくり返した時間》みたいな陰謀だったんだよ!」
「な、なんだってー!?」
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