第15話 始まりのグラス

爺さんに弟子入りすることが決まった後。

オレは、自分のことを話した。


親父のこと、由美子とのこと……。

爺さんは、目に涙を浮かべて、ツラい経験をしたんだな、なんて言ってくれて。

そして、今近くの美大に通ってることも話した。


そして、その拳じゃカウンターには立たせられないから、とりあえず明日は、大学が終わってからでいいから履歴書だけ持って来い、実際に働くのはその拳が治ってからな、と言われた。


翌日、大学に行く前にコンビニで履歴書を買って、授業の合間に履歴書を埋めて。大学が終わったその足で写真を撮り、ioriへと足を向ける。


夕方、17時になる前。

まだ開店前のドアは、オレを拒絶するように聳え立っていた。

緊張から身体が硬い。

今日から働くわけじゃないんだぞ、気合を入れようと頬を張り、深呼吸を一つ。

ドアに手を掛け、押す…その重さが、まるでこのドアの向こうに広がる世界が如何に厳しい物であるかを物語るようだった。


蝶番がギギギ、と重い音を立てる。

開いたドアの向こう、カウンターの中で、爺さんは何か作業をしていた。


オレを見て、おう、来たなと声を掛け左手を挙げる。


「履歴書、持って来ました。よろしくお願いします!」


「おう、あれ、コレはイクトって読むのか?」


「あ、いや、フミトって読みます。」


「おお、フミトか。ってお前18かよ!老けてんな〜!」

……店間違えたかな?


「爺さん流石にそれはねぇよ…。」


「馬鹿タレ!もうお前はオレの弟子なんだ、マスターと呼べい!」


拳骨が飛んで来る、素直に痛い。

だが、親父のただの暴力とは違う、何か温かいものも感じていた。


「いって〜ッ!じい…マスターパワハラだよ!」


「ふん、それがウチの店のやり方だ!

修行は厳しいからな。覚悟しとけよ。」


「…よろしく、お願いします!」


「おう、その程度の怪我なら一週間ってとこだな。

今度来る時は裏から来い。


待ってるよ。」


そうして、爺さんが言った通り一週間後には拳の怪我も治り、オレは修行を始めることになった。

時給は850円、深夜労働もあるのに安いな、とは思ったけど、そんなことよりも修行のキツさが想像とは全く違っていた。


「なんだよ、すぐにそのシェーカー?ってのを振れるわけじゃないのか。」


「アホんだら!カウンターの中でなんだその言葉使いは!」


そんな風にすぐに拳骨が飛んで来る。

カウンターの中で暴力の方がダメなんじゃないか、と思うが、常連さんは相変わらずマスターは厳しいねと笑っている。


「第一な、酒のことを何も分かってない奴が作る酒など、なんの魂も籠りはせんよ。

まずは勉強、とにかく酒のことを知れ。


そして、お客様のことをよく見る癖を付けろ。


それが出来れば、あとは技術なんてしっかり練習すれば勝手に付いてくるもんさ。」


そう言われて、カクテルのレシピブックや酒の種類や歴史なんかが載ってる本を大量に渡された。

寝る前にその本を読みながら、徐々にその世界の深さと広さにハマっていくのを感じていた。


最初の一カ月は雑用だけを命じられた。

フロアの清掃、トイレの掃除、スツールの磨き方。


チェックの時はめちゃくちゃ厳しくて、お客様をお出迎えしようという気持ちを込めろといつも怒られていた。

グラスに洗い残しの汚れや磨き残しの曇りが付いていた日には、容赦なく拳骨が飛んでくる。


お客様の魂を癒す一杯を出すためにはバーテンダーはお客様から信頼されなければならない、だからカウンターの中では完璧な存在でなければならない、穏やかな笑顔でいなければならないんだ、と。

これも、毎日寝る前に鏡の前で笑顔の練習をして、少しはバーテンダーらしい顔付きになったなと言われた時はガッツポーズをしてまた怒られた。


ioriに入って一ヶ月が過ぎた頃には、ステアの練習を始めさせてもらった。

慣れないうちは氷はガチャガチャ鳴るし、肘まで動いてその度に怒られた。

マスターが言うには、派手なシェイクなどより、このステアの技術こそがバーテンダーの技術を支える根幹だと言う。


何かを注意されるたびにそれを改善するように気を付けて、また新しいことを注意される。

少しずつだけど、形になって来ているように感じて、その日から帰った後に一時間は練習をするようにした。

あっという間に冷凍庫の氷がなくなって、製氷器を買い足した。


次の次の週の始めには、シェイクを教えてもらった。

初めて振ったシェーカーは思ったより重くて、夢中になって振り続けると指先が張り付くほど冷たくなった。


力任せでもいけない、弱くてもいけない。

最初はゴシュ、という音を響かせていたシェーカーが、少しずつ軽やかな音になる。

その日から、仕事前にも一時間は練習するようになった。


三ヶ月が過ぎた日、常連さんの一人の、安永様というお客様から、作ってみなよ、と言われた。

口から心臓が飛び出るかと思った。


前日、やっとマスターからまあまあだな、と言ってもらえたタイミングだった。

マスターはやってみろ、と言ってデュワーズの水割りをシングルで作るように言って来た。


水割り、とは言うが、ただの水割りではない。

バーテンダーが作るその水割りは、酒の味を完璧に活かし切った一杯にしなければダメだ。


緊張が全身を包む。


教えられていた通り、8オンスのタンブラーグラスに氷を組み、氷だけでステアをする。

グラスを冷やして氷の角を取る大切な工程だ。

グラスの底に溜まった水を、バースプーンで抑えながら氷を落とさないように慎重にグラスを傾けて捨てる。


デュワーズのボトルを持ち、蓋を開ける。


左手にメジャーカップを持ち、メジャーカップに近付ける…指先が震える、ダメだ、コレじゃあ溢してしまう…!


「大丈夫だ。

お前がこれまでにしてきたことに、自信を持て。」


マスターの、限りなく優しい声が響く…たったそれだけで、不思議と指の震えが止まって。


デュワーズを30ml、表面張力一杯までメジャーカップで測る。

そのまま傾けて、グラスに注ぐ。

ピキ、と氷が常温の液体に触れ僅かに割れる音がする。

お前に本当にできるのかと聞かれているように聞こえて、指先が一瞬だけ震える。


――マスターが許可を出した、ということは大丈夫なはずなんだ。

マスターを信じろ……!


ウイスキーと氷を混ぜ合わせて冷やす。

練習を思い出して、優しく、バースプーンを回す。


そのまま水割り用の水を上から注ぎ、大凡八割方の分量で止める。

うん、バランスはこれで良いはずだ。


バースプーンを挿し込み、ゆっくりとステアする。

ただの横回転ではダメ、縦方向の動きも入れることを忘れない――練習の成果か、氷はぶつかることもなく、グラスの中で静かに回り始める。

カクテルを作るためにはイメージが大切、グラスの中でデュワーズと水が溶け合うように一つになるのをイメージする。


そろそろかな。

回転のスピードを落とし、そのタイミングを待ち…ピタリ、止める。


バースプーンを引き上げ、手の甲に落として味を確かめる。

うん、イメージ通り……。

だが、この安永様はなかなかの酒豪だ。


何かが足りない気がする。


目を閉じて考える、この、いつも明るく楽しい会話を好む安永様。


オレにとっての最初の一杯。

これは、安永様とオレというバーテンダーの最初の一杯。


何かが足りない――安永様がうまそうにマスターの作ったラスティ・ネイルを傾ける姿を思い出す。


この最初の香りが良いよね、そんな安永様の言葉……香り……。


そうだ!


そのままバースプーンを左手に持ち替え、スプーンを裏返しにしてグラスの液面に浮く氷に振れる。


何をするんだ?と興味津々に見詰める安永様。

そして、横に立ってオレの手元を見つめていたマスターの目が見開くのが分かる。

だが、二人とも何も言うことはない。


バースプーンを伝うようにデュワーズをほんの僅かに垂らし、氷の上にそっと置くように――フロートと呼ばれる技術だ。


これで……!


「お待たせしました。

デュワーズの水割り、です。」


コースターの上に置こうとするグラスが震え出す。

これで良いのか、と突然不安に襲われる…マスターはそれでも何も言わない。

真剣な目でオレが持つグラスを見ている…。


コト、僅かな音と共にグラスを置く。


「ああ……ありがとう…。」


何かに驚いたような顔で、グラスを掴む安永様。

そのグラスを口元に寄せる、その目がもう一度驚愕に見開かれる。


「この、香りは…!

水割りっていうから、香りも弱くなると思っていたのに…、すごい鮮烈な……!」


「そいつは、コイツの最後の一手間のせいですよ。」


マスターがオレの肩にポン、と手を掛ける。


「おい、フミト。

お前、なぜ最後にフロートした?」


「それは……。


安永様は強めのお酒が好きだったなと思いまして…。

シングルとの指定があったので、度数は変えられませんが、せめて香りだけでも、その、楽しんで…もらえたらな、と思い、まして…。」


ほぉ〜、と安永様が口にしながら、そのグラスに口を付け傾ける。


「うん…!


うまいよ!


それに、香りも最高だ!」


……!

やった、やった!

うまい、って、言ってくれた!


ヤバい、めちゃくちゃ嬉しい!


「いやぁ、これは楽しみなバーテンダーの誕生ですねぇ〜、マスター?」


「ハァ…。

あんまり褒めないでやってくださいよ、安永様。

すぐ図に乗っちまうんだから。」


「相変わらず厳しいねぇマスターは。

でもまあ、これなら合格、じゃないですか?」


「うーん、まぁ、70点ってとこだな。」


「えぇ〜、厳しいなぁ。

オレは全然うまいと思ったんだけどな!」


「まあ…確かにその水割りは上出来でしたがね…その後の自信がなさ過ぎだ。

自分の一手間を誇れるようにならなきゃ、バーテンダーとしては半人前ですよ。」


そこまで言って、オレを見る。


「まぁコイツは腕はそこそこ、ってとこですが、よく練習してます。


お前、家でもやってるだろ?」


思わずマスターの方を見てしまう、なんで…家で練習してることはひと言も言ってないのに!


「は…はい、帰ってからと、出勤前に、少し……。」


「やっぱりな。

通りで上達が早いわけだ…。

まあ、無理はするなよ。


お前の本分は絵を描くことなんだからな!」


「そういや、大学生なんだっけ。

偉いねぇ、学校行きながらここでも修行だなんて。

どう、バーテンダーは楽しいかい?」


「はい!スゲェ楽しいです!」


途端に拳骨が飛んでくる。


「バカやろ!

言葉遣いには気を付けろっていつも言ってるだろ!」


「いってえ!

マスターの方がめちゃくちゃじゃないすか!横暴だ!」


「オレはマスターだから良いんだよ!」


安永様の笑い声が響く。


こんな風にして、オレの最初の一杯は、無事に終わった。




その日を境に、マスターはどんどん新しい技術やレシピをオレに教え、お客様へのカクテルを少しずつ任せてくれるようになった。


オープンの前の丸氷も、ペティナイフの練習にもなるからとやらせてくれるようになり、バーテンダーとして自分でも成長していけているという感覚が湧いてくる。


その分、実際にオレが作っている時は、マスターはカウンターの奥で椅子に腰掛けて見守っているようなことが増えた。

とは言え、ステアで氷が鳴るようなことがあればすぐに飛んで来て拳骨を喰らわせる。


そして、市川様のスーズ・ギムレットや、あの雪の夜の安永様へのラスティ・ネイルを通して、オレの一杯にできること――誰かの魂に寄り添う事に対して、責任を感じるようになっていった。


同時に……身の震えるような喜びも。


由美子を見殺しにしたオレが……誰かの力になれる。


それは、オレがカウンターに立っていても良いんだと、生きていても良いんだと言われるような、そんな感覚だった。


もうすぐioriに入って一年が経つ頃には、チーフという役職にしてもうことができた。

時給も百円上がったが、そんな事よりも認めてもらえたことの方が嬉しくて。

その夜お越しになった安永様に喜びの余り報告したら、手放しで褒めてくれると同時にめちゃくちゃに驚いていた。


チーフという役職を与えられたのは、オレが初めてのことらしい。

慌ててマスターの顔を見ると、


「まあ、お前の腕はまだまだ駆け出しも良いところだがな。

泣き言も言わずに努力するところと、ちゃんとお客様を見ているところは本物だよ。

自信を持て。」


と言われてしまった。


責任の重さに、その夜は眠れなかったのを覚えている。


三井様がカウンターで告白をした頃には、マスターは体調を崩したから、と言って休むことも増えていった。

歳が歳だしな、と心配しながらも、少しずつ一人で店を回すことにも慣れるようになっていた。




そして――あの、雪の日がやって来た。




クリスマスが近付いて、街が色とりどりのネオンに彩られ、年末特有の気配を濃厚に漂わせていた。

その日は午後から雪になり、最近腰が痛いと言うことが増えていたマスターは、なんだか今日は調子が良いんだ、と言っていた。


帰り道転ばないでくださいね、なんて言っていたんだけど……その夜、マスターが家に帰ることはなかった。


いつもよりまばらなお客様を見送り、安永様だけが残った。

ほろ酔いになって来た安永様も、そろそろお会計かな、なんて思いながらギムレットの準備をしていたその時――。


「グ、クウゥッ!!」


マスターの苦しそうな声が聞こえて来る。


慌てて振り向くと、苦しそうに顔を歪めたマスターが、椅子から崩れ落ちるのが見えた。


「マスター!」


カウンターから氷を入れたシェーカーが落ちる派手な音が背後で聞こえる。

倒れ込むマスターを腕に抱くが、息が荒い。

額に手をやると、汗で掌がベトつく、酷く熱い…。


「マスター!大丈夫か!」


「安永さん!!マスターが、マスターが……!」


安永様が携帯電話を取り出す。


「分かってる、今救急車を呼ぶから!

ここの住所を教えてくれ!」


「コレを!」

マスターをそっと床に下ろし、ショップカードを渡す。


「ゲホッ、グ、グボァッッ!」


マスターが血を吐き出す、途端に床が赤く染まる。――

黒い床の上に広がるマゼンタカラーが、サロメに捧げるために首を落とされたヨハネの血を思わせた。

ジンのジェニパーの香りを鉄錆のような血の匂いが上書きする。


「マスター!マスター!

なんで、何が、どうして……。」


訳が分からなかった。


マスターが、死ぬかも知れない。


頭が真っ白になった。


由美子に続いて、マスターも、また。


オレのせいか。


オレに、関わったから。


「フミ、ト…。」


マスターが震える指を伸ばしてオレの名前を呼ぶ。

コポ、と小さな音を立ててまた口から血が流れた。


「マスター!

オレだよ、フミトだよ!ここにいるよ!」


伸ばされた手を握る。

彷徨っていたマスターの目が、オレを捉えて――笑う。


「店を……頼む、ぞ……。」


マスターはそう言って、その目を閉じる。


「マスター!!」


重いドアの向こうから救急車の鳴らすサイレンが聞こえる。


店の前に来た救急隊員が、蝶番を軋ませてドアを開ける。


「患者はどちらですか!」


「ここです!ここにいます!


はやく、早くマスターを助けて!


お願いだから!


オレの、オレのせいで、オレが、オレが」


「落ち着けチーフ!

チーフのせいじゃない!救急隊員に任せるんだ!」


救急隊員が無線で何かを話しながら、マスターを救急車に乗せていく。

その様が、由美子を乗せた霊柩車に重なって見える。


「いやだ……いやだ…マスターを、連れてかないで……!

マスターを、助けて……!」


「おいチーフ、しっかりしろ!

クソっ、パニックかよ、無理もない…!」


誰かがオレの肩を揺する、邪魔を、するな、と思ったその時、頬を張られる。

安永様だった。


「しっかりしろ、チーフ!

救急車、オレも一緒に乗っていってやるから!

受け入れ先はそこの総合病院だ、ほら行くぞ!」


安永様に手を引かれて、救急車に乗り込む。


無線の声が時折何かを告げているが、何を言っているのかさっぱり分からなかった。

ただ、血に塗れたマスターの顔を見る。

苦しそうに顔を歪め、額の汗が止まらない。


マスターの手を、そっと握る。

この手で、マスターはオレの居場所をくれた。

この手で、マスターはたくさんの人の魂を癒して来た。


マスターは、こんな所で死んじゃいけない、死ぬはずがない。

そう思いながら、最悪の予想が頭から離れない。


そして、救急車が大きく曲がり病院の救急搬入口へと到着する。

大きく口を開け、マスターの乗った担架が運び出される。



オレと安永様は一睡もすることなく朝を迎えた。


マスターは集中治療室に入って、何本もの管に繋がれている。

枕元の機械が、ピッ、ピッ、と規則的な音を立てていた。

あちこちの検査室を回りながら、応急処置によって容態は安定したと言う。

顔色は、失った血の多さを表すように青白いままだった。


この病院でも有名な先生が、この後診察してくれると言う。その先生が来るのを、待っている所だった。


「大丈夫か、チーフ?

今日も大学はあるんだろう?

帰った方が良いんじゃないか?」


「大丈夫です…単位は今のところ足りてますし、もうすぐ冬休みですから。」


こんな時にまでオレを気遣ってくれる安永様には、甘えっぱなしだ。

病院にまで着いて来てくれて、今もこうして一緒に居てくれて。


そこで急に気付いた。


「安永様こそ、すみません気付かず!

もう、大丈夫ですから、お帰りになって……。」


「大丈夫だよ、オレの方こそちっとくらい休んだって平気さ。

オレだって現場に居合わせて気になるんだ、先生の話はオレにも聞かせてくれよ。」


「……ありがとうございます…なんとお礼を言ったら良いか…。」


「心配すんなって…あっ、昨日の飲み代、払ってないじゃん!

ごめん、今度払うから!」


「いやそんな…ここまでしていただいて、もらえないです。

マスターも、絶対、」


そこまで言って、言葉が詰まる。


マスターはまだ目を覚まさない。

このまま、目を覚さないなんてこと、ないよな、大丈夫、だよな。


押し黙るオレを見て、安永様も言い淀むように手を伸ばそうとして、下ろす。



その時。

コツ、コツ、コツ、と足音が聞こえて来た。


「来たぞ、あれが診断の神様って言われてる村上先生だ。

なぁに、村上先生が診てくれるんならもう大丈夫だ心配すんな!」


安永様の手は、今度こそオレの背中を叩いて、二人で立ち上がる。

頭を下げて、村上先生を迎える。


「初めまして。関係者の方で間違い無いですね。」


「「はい。」」


唾を飲む。


その表情からは、何も読み取ることは出来なかった。


「担当の村上と言います。

一度患者の様子を診てきますので、少しお待ちください。」


そう言って、集中治療室に入って行った。

背中を見送るしか出来ない自分には、何も出来ないことが悔しかった。


村上先生はすぐに出て来て、


「とりあえず、こちらでは何ですので。

診察室の方へお願いします。」


そう言って踵を返してしまう。


安永様と、先生の後を追い、第二診察室と書かれた部屋に入った。

先生は椅子に座り、机の上の大きな封筒からレントゲン写真を何枚も取り出し、その目の前の台に並べて行く。


その間、誰も一言も発することがない。

重い空気だけが、その場に留まって渦を巻いていた。


「ああ、すみません、どうぞお掛けください。」


村上先生に勧められるがままに並んで椅子に腰掛ける。


「患者さんは、バーのマスターとお聞きしています。

お間違い無いですか?」


「はい。」


安永様が代わりに答えてくれる。


「お二人は、患者さんとはどういったご関係で?」


「私は、マスターの店にはよく通わせていただいてまして、昨日もその、彼が倒れた時に居合わせた者です。

こちらは、彼のお弟子さんです。」


「なるほど。

では、お弟子さんにお聞きしたいのですが。

彼のご家族についてはご存知ですか?」


「はい、マスターは独身でご家族はいらっしゃらないと伺っています…。」


「そう、ですか…。

ふぅむ。


本来ですとご家族にしかお話し出来ないのですが…。」


「そんなに、悪い、んですか……。」


「まぁ…お弟子さん、ということであればご家族みたいなものでしょうし。

今後のこともあるでしょうから。

お話ししておきましょう。

そちらの、」


「あ、安永と申します。

村上先生には一昨年母がお世話になりまして。」


「ああ、安永さんとこの。

何回かお見舞いにいらしてましたね。


貴方は、どうなさいますか?

ただの常連客ということであれば、その。」


「できれば…聞かせてもらうことはできませんか。

この子はまだ若い。

話の内容によっては一人で受け止められるかどうか…。」


村上先生は顎の下に手をやって考え込む素振りを見せ、数秒悩んだ後。その口を開く。


「わかりました。

いずれにしても、関係者の方にも相談してから今後のことを決めなければならなかったもので。」


そう告げて、レントゲン写真に向き直る。


「このレントゲン写真では、分かりづらいのですが。


身体の臓器として、ここが肺。

ここが胃、ここが肝臓、そしてここが膵臓です。」


指示棒が指す辺りをよく見ても、何となくコレかな、というものが薄ぼんやりと見えるだけで、よく分からない。


「こちらが、この部分をCTで撮影したものになります。」


先程、先生がここが膵臓、と言っていた辺りを指しながら何枚かの写真を並べていく。

マスターの身体の断面図だった。


「ここが、先程もご説明した膵臓になりますね。

健康な臓器は、通常このような色に映ります。

が、この隣り。」


そう言って先生が指した辺りは。


明らかに、先程先生が告げた健康な臓器の色に対して、黒く変色していた。


「膵臓癌です。


それも、かなり進行している。」


その変色した場所。


膵臓癌。


それが、マスターを苦しめた、原因。


「膵臓癌はリンパに乗って転移しやすい。

昨日の出血は、腹膜への転移が破れたものと考えています。」


転移。


それって。


「しゅ、手術は…手術で、どうにか」


「申し訳ありません…。

ここまで進行していると、手術では…。


一度より精密な検査をして、転移の状況と膵臓の状態も診なければなりません。

今後は、抗癌剤治療を中心に、まずは癌細胞を減らして、手術できる状態にまで持っていけるかどうか、が勝負です。


ただ、その間も転移の可能性もあり――」


先生の説明は続いていた。


ただ、その言葉が、耳に入ってこない。

何を、言っているんだ。


その時、安永様の、やけにわかりやすい質問が聞こえた。


「先生…、その、膵臓癌、ってことは。

あの、つまり…あと、どれくらい、」



「………………。



既に、転移が始まっている、とすれば…長くて、一年。



本人の体力と、気力が勝負です。

後は、抗癌剤が上手く適合してくれれば……。」



後……一、年。


マスターが。後一年で、いなくなる。


たった、一年、で。


オレに、ちゃんと悲しむことを教えてくれた、マスターが。


フロアの清掃を、

トイレの掃除を、

スツールの磨き方を教えてくれた、

マスターが。


グラスの洗い方も、

磨き方も教えてくれた、

マスターが。


オレに拳骨を飛ばしながら、

笑いかけてくれた、

マスターが。


オレが作ったギムレットを飲んで、

まあまあだな、

なんて笑って頭を撫でてくれた、

あの、マスターが。







死ぬ。







嫌だ。

嫌だ。

嫌だ。

嫌だ。

嫌だ。



「嘘、だ。」

 呟きが溢れる。


「お気持ちは分かります。ですが、しかし」


「嘘だ、そんなの。嘘だ。


マスターは、昨日は調子が良いんだって、言ってた。マスターからは、まだ、これからもたくさん、教えてもらうはずだったんだ。

だから、こんなの、嘘だ。嘘に決まってる。ねぇ先生、嘘だと言ってよ。

嘘だと言えよ!ふざけんなよ、なんでマスターが死ぬんだよ!なんだよ膵臓癌って!そんなの、なんでだよ!なんで、マスターが!

頼むよ、先生、頼むから、マスターを、たす、け、て」


その言葉を最後に、オレの記憶は途切れた。




目を覚ましたのはベッドの上だった。


窓の外では、分厚い雲の切れ目から抗うように太陽の光が僅かに漏れて、幾つものレンブラント光線が重なっていた。


病室に寝かされていたらしい…安永様が、心配そうな目でオレを見ていた。


「やっと起きたか!

心配したぞ、お前急に過呼吸起こしてぶっ倒れるんだから!」


フラッシュバックするように、村上先生の話を思い出す。


あれは……夢、じゃなかったのか…。


「すみません…みっともないところをお見せして…。

今、何時ですか…。」


「もう昼過ぎだよ。13時になるところだ。」


「もう、そんな時間…家に帰って、着替えないと…店の開店に、間に合わない……。」


「あ、おい……今日も、店開ける気かよ…。

無理すんなって、今日は休めよ!


っていうか、マスターがこんなことになっちまったんだ、もう店は無理だろ!

閉めるしかないって!」


「ダメです……。

それだけは、出来ません…。

マスターは、オレに言ったんだ…。


店を、頼むって。


だから、オレが……。」


そうだ。

オレが。

ioriを。


マスターが帰ってくる場所を。


この、生命に換えても…!




「守るんです…!」

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