第10話 病室
夢を見ていた。懐かしい夢だった。
"あの人"が、隣りで笑う。
懐かしい声が、優しく響く。
**くんは、本当に、バカだなぁ。
立ち上がって、歩いて行く。
待って。
行かないで。
側にいてよ。
まだ、ちゃんと謝れてない。
犯した罪は、償わなきゃ…罪は、終わらないんだ。
どうしたら償えるか、どうしたらキミに届くのか、教えてよ。
彼女は、オレが大好きだった笑顔で振り返って、
…だから、バカだって言うんだよ?
もう、とっくにーー
瞼に光を感じる。
嫌だ、もっと一緒にいたいのに。
そこで、目が覚めて、夢だったことを理解する。
周りが、白い。
「チーフ!起きたか!
馬鹿野郎、無理はしないって、約束だったじゃねえか!」
「安永、様…。」
まだ、頭が回らない。
ここは…どこだ?
身体が熱い、まだ熱は残っているのを感じる。
ゲホ、咳が出る。
その弾みに一気に失態を思い出す。
もしかして、倒れた…?
いけない。
身体を無理矢理に動かして起き上がる。
たったそれだけなのに、関節が悲鳴を上げて、顔が歪む。
「店に、戻らなきゃ…。
百瀬くんを、1人にできない…。」
急に動いたからだろうか、咳が止まらない。
咳き込む度に喉と肺が焼けるようだ。
安永様が水差しから水を飲ませてくれる、喉に染み込むように冬の空気に冷やされた潤いが広がる。
しかしすぐにその冷たさも熱に変わっていく。
身体の熱が痺れを伴い、思うように考えがまとまらない。
安永様が枕元の何かをいじりながら、背中をさすってくれる。
「大丈夫だ。
もう、大丈夫だから。
店は、横山マスターが人を貸してくれることになった。
お前がいなくてもちゃんと店は動いている。」
「そんな…!
ただでさえ、百瀬くんお借りしてるのに、これ以上は!」
『ナースステーションでーす、どうしましたかー』
枕元から、突然くぐもった声が響き渡る。
今、なんと言った?ナース、ステーション?
「付き添いの安永です。患者が目を覚ましました。」
『わかりましたー、今先生お呼びしますねー』
どこか間延びした声が部屋の中に響く。
「安永、様…ここ、は…病、院?」
まずい。
「ああ、病院だ。お前、倒れて入院したんだ。
二日も目を覚さないから、みんな心配したんだぞ。」
金が、ない!
一気に頭が冷える、二日だと!?
入院!?
一体、いくらになるんだ!
「そんな…!
無理だ、今すぐ退院しないと!
今はそんな、余計な金なんて!」
今月はもう、金がない。
ただでさえ、制作に戻って画材代が逼迫しているのだ。
入院だの病院だの、そんな金を捻り出すことは到底不可能だ…!
慌てるオレを、安永様は押さえ付けるようにしてベッドへ倒す。
「何が余計だ!お前、死ぬとこだったんだぞ!
無理はするなって約束しただろうが!」
安永様は…泣いていた。
コンコン、とノックの音が、二人の会話を途切れさせる。
涙を拭い、どうぞ、と促す安永様の声は、疲れの色を帯びていた。
そういえば、安永様のスーツはヨレヨレだ。いつもパリッとしたお洒落なスーツを身に纏う安永様にしては、珍しい。
もしかして、ずっと、オレなんかの側に…?
ドアをスライドさせて、そこに姿を現したのは。
市川先生と、名医として名高い、内科の村上先生だった。
村上先生はオレのいるバーに足を運ばれたことはない。
だが、"あの日"、マスターを診察してもらい、がんセンターへの移送を手配してくださった先生だ。
その時に面識があった。
市川先生は、パリッとした白衣に身を包み、険しい顔をしている。
よく見れば、薄っすらとその目には涙の跡が見て取れる。
知られてしまった、という恐怖が襲ってくる。
「驚いたよ。
マスターが担ぎ込まれた時、あんなに取り乱していたキミと、市川先生が絶賛するバーテンダーが。
まさか同じ人だとはね。」
村上先生は、怒ったように告げる。
「何故、こんな無茶をした。」
淡々とオレを責める声が聞こえる。
「既に胃の拘縮が始まっていた。
昨日今日の話ではないだろう。
まさか、"あの日"からずっと。」
顔を背ける。
二人がいる前で、認めることは出来ない。
「答えられないか…。
だが、分かっているのか。
キミがこれだけの無茶をしたことで、どれ程の人に心配を掛けたのか。
どれだけの人が私に問い合わせの連絡をして来たと思う?
いい迷惑だよ。」
胸が締め付けられる。
あの時は、どれ程の人に見られていたんだろう。
お客様に不安を与えてしまった。
思わず心臓を握り潰すように胸を掻き抱く。
指先が、ネックレスに通した指輪に触れる。
「村上、先生…そこまで、言わなくても…。」
市川先生が止めに入る。
だが、村上先生の言葉は容赦なくオレを打ち据える。
「市川先生。貴方も医者なら分かるでしょう。」
小さく息を吐く。
「この患者は、生きる事を放棄している…。
全てを誰かのために捧げようとしている。
生きる意思を無くした人間に、尽くす手はない。」
胸の痛みが増していく。
喉を突いて出てくる咳が、やけに肺に響く。
「市川先生がどうしても、というから診たが…。
キミに必要なのは、身体の治療じゃないよ。
キミが、どれだけの人々に愛され、必要とされているか…
その目で、その体で。しっかりと理解するんだ。
それまで、退院は許さない。」
どこかで、分かっていた。
オレは…壊れている。
それはきっと、"あの人"を喪った、あの日。
あの人が死んだ事を知った、あの瞬間から。
言葉を発する事が出来ない。
奥歯を噛み締める、血の味がする。
苦しい。
それは、肺の痛みだけじゃなくて。
心臓が鼓動を上げる事を拒否するかのような、悲しい痛みだった。
安永様と市川先生は、何も言えずにオレと村上先生を見比べている。
「起きてすぐに喋ったんだ、疲れたろう。
眠りなさい。」
そういう訳にもいかない…、今すぐにここを出なければ。
これ以上入院費だなんて、
「金のことなら心配すんな。安心しろ。」
安永様の声が頭の中に響く。
確かに、疲れていた。
その声を聞いて、オレは何故か安心して意識を手放した。
----------------
気を失うように眠りについたチーフを見届けてから、三人で揃って病室を出る。
安永さんは皆に目を覚ました事を伝えてくる、と言って病棟の通話エリアへ向かった。
村上先生は、悲しそうに呟く。
「まさかあの子が、な…。」
チーフが担ぎ込まれた時。
村上先生が彼を見て、驚きの声を上げた。
面識があった事すら、私は知らずにいた。
その後、関係者として詳しい話を聞く事が出来た。
その真実は…何処までも残酷だった。
ある夜…店でマスターが倒れたと、救急車に一緒に乗って来たのが彼と、安永さんだったらしい。
酷く慌てた様子で、泣きながらマスターを助けてくれ、と救急隊員に縋る彼は。
普段私達が見ていたような、大人びた姿ではなく。
年齢相応の、可哀想な子供にしか見えなかったという。
あの、いつも落ち着いて、大学生だなんて言われても疑ってしまう程に冷静なチーフが、だ。
どれだけマスターのことを信頼し、心配しているかが伝わるようだったという。
マスターは一命を取り留めた。
だが、診断は、進行性の膵臓癌。
既に癌細胞は増殖を繰り返していて、手術による治療は不可能なまでに育っていた。
この病院にも入院していたらしい。
毎日、チーフは見舞いに来ていて。
その度に、何か出来ることはないのか、打つ手はないのかと、毎日のように詰め寄られたという。
マスターは少しでも体調が良くなると、退院して店に出ようとしていた。
店に近過ぎる事が却って悪影響になるから、とがんセンターを勧めたのは、村上先生の方からだったらしい。
転院の日、マスターの入院代は…チーフが払っていたと、事務員は語っていた。
息子さん、泣いてましたよ、と目に涙を浮かべながら。
私は、この病院にいながら全く知らずに過ごしていたのだ…。
チーフの苦しみも、悲しみも…困窮も。
張り裂けそうな胸の痛みが、私を打ちのめす。
「市川先生。あの子を、救えるのは。
私じゃあない。
あの子を知り、あの子を守りたい、と思う周囲の人々だ。
その中には貴方も入っているんですよ。」
村上先生の声が、私の心に希望の火を灯す。
「頼みますよ、私の患者を。市川先生。」
力強く頷き、村上先生の手を握る。
「ありがとうございます、村上先生。
必ず、私が助けてみせる…!」
「彼が回復したら、彼の店に連れてってくださいよ。
市川先生の奢りでね。
いやぁ、私も酒には目がなくてね?
噂に聞く、王のギムレットは一度飲んでみたいとは思っていたんだが、まさか彼が王とはね。
よろしく頼みますよ。」
左手で私の肩を叩いて、ウインクしながら笑う。
診断の神様、なんて言われていても、こんなふうに気さくな顔もできるんだな。
自然と、私の顔も笑顔の形になった。
でもきっとそれは、泣き笑いのようなものになっていたのかも知れない。
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一度目を覚ました後、チーフは再び深い眠りについたようだった。
うなされる事もなく、安らかに眠っている様子は、年相応の子供にしか見えない。
どれ程の想いで、彼はこの二年近くの時間を過ごして来たと言うのだろう。
あの日、マスターが倒れた日に、パニックになった彼を支えながらこの病院を訪れた日のことを今でも昨日のように思い出す。
いつも老けてる、だの言って揶揄っていても、年齢的には息子であってもおかしくないくらいの、まだまだ子供なんだということを、あの日オレはまざまざと見ていた。
全てを知る者として、オレには協力する義務があると思っていた。
支援を申し出たのは、自然な流れだったし、まだ世間のことを知らない彼なら、きっと頼ってくれると思っていた。
だけど。
彼はオレの申し出を断り、代わりに全てを秘密にしてくれ、と頼んで来た。
転院の話が決まった時もそう。
マスターの入院代が、チーフの財布から出ていることを知った時は、何をしているんだと怒鳴りつけてしまったほどだ。
マスターに子供はいなかったはずだ。
オレには、マスターがチーフのことを見る目が、まるで歳の離れた父親のように映っていた。
オレにもチーフとは雲泥の差とは言え不祥の息子がいる。
オレが息子にこんなことをされても嬉しいとは思わない。そう言って。
だが、チーフの目は覚悟に染まっていて。
オレから、マスターに恩返しをするチャンスを奪わないでください。
そう言われて、何も言えなくなってしまった。
この二人に…何があったんだろうか。
二人の関係に想いを馳せる。
先程、百瀬くんと根津さんには直接報告をした。
二人とも安堵した声で、良かった、と言っていた。
本来なら、根津さんとは契約のことで話をする必要があったが、根津さんも気が気ではないのだろう。
そんなものはいつでも構わないから、今はチーフの側にいてやって欲しい、何かあればすぐに連絡してくれ、と言っていた。
チーフは、根津さんにとっても既に特別な存在になっていたのだろう。
「馬鹿野郎が…。全く、心配ばかり掛けやがって…。」
倒れた瞬間のことを思い出すと、今でも涙が溢れてくる。
バックヤードから響く、鈍い音。
狼狽した百瀬くんの声。
生きた心地がしなかった。
コンコン、とノックの音がした。
誰だろう。百瀬くんと根津さんには先程連絡したばかりで、気を使ってか二人とももう少し落ち着いてから見舞いに行く、と言っていた。
お医者様が何か言い忘れたことでもあったのだろうか。
チーフを起こさないように、ドアに向かいそっと開ける。
そこにいたのは…昔チーフとのカクテル勝負で店を閉めたという、Kの元マスター。
チーフの兄弟子に当たる。
確か、ケンジ、と呼ばれていたはずだ。
どうして、ここに。
「安永さん…横山マスターから聞いて。
ウチの弟弟子が、すみません。」
ケンジは殊勝にもそう言いながら病室へと足を踏み入れる。
意趣返しかとも思ったが、違うようだ。
そんなことをしに来たんなら、オレがぶん殴るところだった。
「まだ、寝てるのか…。
この…馬鹿は…。」
絞り出すような声を漏らしながら、見舞いの品だろうフルーツを枕元に置く。
そうだ。
チーフの店のマスターは、ケンジにとっても師匠だ。
何も知らされてなかったのだろう。
悔しそうに震える拳が、膝の上で震えていた。
う、うん…そんな小さな呻き声を上げて、チーフがゆっくりと目を開ける。
「ケンジ、さん…安、永様も…。」
起き上がりそこまで言って咳き込む、無理もない、喉が渇き切っているのだろう。
ケンジが慌てて水差しからコップに注いで手渡す。
受け取り、一気に飲み干した喉が上下するのが見える。
少し咽せながら、ありがとうございます、と返す声にはいつもの力強さを感じない。
チーフが、身体だけではなく、心までもが弱っている事が手に取るように分かる。
ケンジが、甲斐甲斐しくチーフの背中をさする。
「大丈夫か?無理しなくていい。」
ケンジのそう言う目が潤む。
「こんなにまで……痩せ細って…。」
Kの閉店にチーフが関わっているとしても、間違いなく弟弟子、ということなのだろう。
ケンジが、チーフを思う気持ちが痛い程伝わってくる。
少し落ち着いたのか、チーフがありがとうございます、と告げて溜息を吐き出す。
「すみません…ケンジさんにまでご心配をおかけして…。ご迷惑を、」
「良いんだ、心配すんな。
お前、後で横山マスターにちゃんとお礼しろよ。
Yから人連れて、店回してくれてるんだかんな?」
「すみません、はい、もちろん。
退院したら、真っ先に向かいます。」
そのまま、お互いに次の言葉を探すような沈黙が下りる。
「ケンジ君だったか、横山さんから聞いたと言っていたが…彼は、何と?」
頭を掻きながらこちらを振り返り、ケンジがバツの悪そうに応える。
「いや、その…お前は、師匠と弟弟子が大変な時に、何処をほっつき歩いてるんだ、と怒られまして…。
事情を聞いて飛んで来たんです。
一昨日の夜中にその連絡を受けて。
今は短期間で色んな店で修行させてもらってたんですが、世話になってたところに、昨日慌てて話して来まして、辞めて来ました。」
「辞めてって…どうする気だい、一体。」
そう聞くと。ケンジは、少し考えるように俯いた後、真っ直ぐにオレの目を見る。
何か覚悟を決めた目だ。
「それを答える前に、コイツに確認しなきゃならない事があるんです。」
そう言って、再びチーフに向き直る。
言い淀むように、指を何度も組み直す…そして。
「横山マスターが、帳簿に挟まれてたメモのことも話してくれた。
なぁ…お前、
マスターの医療費、全部出してた、ってのは…本当か?」
思わず目を見開く。
身体中を雷で撃たれたような衝撃を覚える。
馬鹿な…あの、転院の時だけだと思っていた…そんな、馬鹿な。
だが、そうだとすれば、チーフのこの困窮も、痩せ細った姿も、説明がつく。
何より、衝撃を受けたように固まったまま、何で、どうして、と呟くチーフの姿が、それを事実だと告げていた。
「なぁ…ちゃんと、お前の口から。
答えろよ。」
顔を背け、唇を噛み締め、何も言うまいと俯くチーフ。
薄く血が滲む…どれ程の力で、その歯を食いしばっているというのか…。
「なぁ。
お前にとって師匠かも知れないがな。
お前、忘れてないか?
オレにとっても、師匠なんだぞ、マスターは。
オレには、」
ゴクリ、とケンジの喉が動く。
「ちゃんと全てを、知る権利があるはずだ。」
重い空気が病室に満ちる。
永遠とも思えるその沈黙を破ったのは、チーフの小さな、本当に小さな呟きだった。
「……はい。」
ケンジが、その返事を聞いて、フゥ、と溜息を漏らす。
次の行動は、止める間もなかった。
チーフの胸ぐらを掴み、一発。殴ったのだ。
慌ててケンジの背後から羽交締めにする。
「何をやってるんだ!
チーフは病人だぞ!」
チーフは唇を切ったのか、先程よりも血が流れて咽せる。
その顔は殴られた衝撃のまま、俯いていて感情は見えないまま。
固く歯を食いしばる様子が、痛々しかった。
そんなオレに構うこともなく、ケンジが怒鳴る。
「テメェは馬鹿だ!
大馬鹿野郎だ!
マスターがお前に頼んだのか!
金を出してくれと、ひと言でも言ったのか!」
羽交締めにしたオレの手に、一滴雫が落ちる。
ケンジは…泣いていた。
「マスターがそんなこと…そんなこと、お前に望むはずがないだろう!
マスターを馬鹿にするな!
オレの師匠を、馬鹿にするんじゃねぇ!」
そう告げて、ケンジは病室を飛び出して行った。
取り残されたオレは、突然の成り行きに驚いていたが…ケンジの気持ちは、痛いほど分かってしまった。
チーフは、俯いたまま、何も語らない。
----------------
殴ってしまった。
こんなことをするつもりじゃ、なかった。
どうしてオレにひと言、相談してくれなかったんだと、優しく言葉を掛けるつもりだった。
だけど。
もしかしたら、アイツは、オレがあのカクテル勝負を吹っ掛けた時…師匠の事を、相談しに来たんじゃなかったのか。
コンペに出すために浮かれて、ちっぽけな嫉妬から、勝負を吹っ掛けたオレに、相談できるはずもない。
あの時、もしかしたら伸ばそうとしていた、アイツの救いを求める手を――封じ込めたのは、オレだ…。
オレが、本当に殴り飛ばしたかったのは、オレ自身だった。
アイツに投げた言葉は、全部オレ自身に返ってくる。
アイツが、どれ程の苦しみの中で、オレのところに来たのか。
失望して、一人で抱え込ませたのは誰だったのか。
師匠を馬鹿にしたのは、アイツじゃない…この、オレ自身だった。
オレは、今オレが許せない。
あの、必死に師匠の帰る場所を守ろうとしていたアイツを突き放したことも。
一人にしてしまったことも。
殴ってしまったことも。
すまない…心の中で詫びながら、涙を拭う。
気が付いたら、拳を廊下の壁に殴り付けていた。
何度も。何度も。
拳が血に塗れる。
遅れて、痛みがやって来る。
その痛みが、冷静さを取り戻させてくれた。
遠巻きにオレを見詰めるナースがいる。
大きな音に驚いた入院患者が顔を覗かせている。
騒がせてしまったな、とすみません、とお詫びをしながら。
オレは、オレがやらなきゃいけないこと、今やるべき事を思い出す。
そのまま、駐車場に停めてあったレンタカーのエンジンを付け、車を走らせた。
運転中、壁に叩きつけた拳がジンジンと熱を持ち、脈動に合わせて鈍い痛みを訴える。
その痛みが、オレの頭の中のノイズを打ち消す鎮痛剤のようだった。
チーフのあの細くなった身体、その上で殴ってしまった感触、そして安永さんの驚きの顔が、何度も脳裏にフラッシュバックする。
こんなことをするために、オレは修行を辞めてきたんじゃない。
オレにできる、師匠と弟弟子、二人の誇りと未来を守るための選択をしなければならない。
例えどれ程残酷な選択だとしても。
この痛みを、その覚悟に変えなければ。
一時間程車を走らせて着いたのは。
国立がんセンター。
師匠の入院先だった。
先に事情を知っていた横山マスターから病室は聞いてあった。
真っ直ぐに病室に向かう。
ノックをして、返事を待つ。
昔、毎日聞いていた懐かしい声が聞こえる。
恐る恐るドアを開けると、記憶の中にあった姿よりは一回り小さくなった、師匠の姿だった。
「おお、ケンジか。久しぶりだな。
お前も、聞いたのか。」
意外と元気そうな声だ。
だけど、微かに震える声が、病魔の恐ろしさを告げていた。
「お前、今何やってんだ?
店閉めて、何処ほっつき歩ってんだ。
…何だ、喧嘩か?」
オレの拳から流れる血を見て、師匠が呆れたように告げる。
「ったく…血の気が多いのは変わらんな。
あれ程言ったのに、まだ分からんのか。
お前の拳は、誰かを傷付けるためにあるんじゃないんだぞ。
誰かを癒すための、一杯にお前の魂を込める、そのための大切な手なんだ。
この馬鹿者が。」
ああ……変わらないな、師匠は。
止まったはずの涙が、もう一度頬を伝う。
この人は…オレの弟弟子が何をしているのか、知らないのだろうか。
全部、話してしまおうか。
師匠から、あの馬鹿を叱ってもらおうか。
「何を泣いてるんだ、馬鹿モンが。
私はまだほれ、この通りピンピンしとるわい。
勝手に殺すな、馬鹿タレが。」
身体中に転移していると聞いている。
もう残された時間は僅かで、身体中が痛いはずだと言う。
でも、師匠はひと言も弱音を吐くこともなく、医師やナースにも痛みを訴えることはないと言う。
この人が、あの馬鹿にあんな事を頼むはずが、ない。
「あの、」
その時だった。師匠の目が、見たこともない寂しそうな目に変わる。
「なぁ、ケンジ…店は、オレの店は、どうなってる?」
あぁ…アイツが、あんな無理をしてまで。
店を守ろうとした理由が、一瞬でわかってしまう。
師匠にとって、あの店は、治療を頑張るための、生きる目的そのものなのだ。
「チーフは、元気にしているか…?
アイツは、無理しとらんか?
ちゃんと飯食っとんのか、あの子は。」
師匠の、言葉が。
胸を締め付ける。
すみません、オレは、アイツを殴ってしまいました…。
でも、だからこそ、オレはやらなきゃいけない事がある。
オレの敬愛する師匠に、言わなきゃいけない事がある。
「マスター…。
折り言って、話があります。
マスターの、あの店を…ioriを、
――オレに売ってください。」
震える声を必死で抑え込んで。
師匠の、大切なあの店を…帰る場所を、オレに寄越せ、と残酷な選択を強いる。
なんて言われるだろう、怒られるかも知れない。
俯きそうになる顔を、ちゃんと返事を聞かなきゃ、と前を向いて師匠の目を見る。
ふと、その目にひと雫の光が見えた。
そのまま、師匠は拗ねたようにそっぽを向いて。
吐き出すみたいに呟く。
「そう、か…そう、だなぁ……。
お前に、買ってもらうか。
それが、一番いいかも知れないなぁ…。
なぁ、ケンジよ。
頼みが、ある。」
「はい…。」
分かる。
分かってしまう。
分かりたくないのに。
これは……死に往く者の願い。
師匠の、最期の願いだ。
「店と…あの子を、頼む。
あの子は、危ういところがあるから、なぁ…。
無理をしてないか、お前が、見てやってくれないか?」
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