第11話

 突然、女性の低い声がした。

「そこを離れろ。……その男は、私のものだ」

 目を開けると三ツ目の愛染明王の顔があった。

「エッ……」明王がしゃべった?

「私は愛染明王の僕、シノブヒメ……」

 明王の顔が女性のそれに変わる。榊真知子の顔だった。何故か、顔以外の部分ははっきりしない。着ているのは淡い色の和服のようでもあるし、裸のようでもある。

「リュウは誰にも渡さない」

 真知子の顔をしたシノブヒメが言った。

「どうしてそんなことを言うの。このままならリュウニイは死んでしまうかもしれないのよ」

「リュウの魂は永遠に私の供。死などらちの外」

 真惟はたじろいだ。しかし、何としても兄の魂を彼女から取り戻さなければならない。勇気を振り絞って言い返す。

「分からない人ね。死んだら、元も子もないでしょ」

 噛みつくように声を上げ、腕を伸ばして彼女の髪を握った。

「笑止」

 彼女は笑った。その口は、まるでカバのそれのように巨大だった。それが、真惟をのみ込むようにグワッと襲ってくる。実際、真惟は彼女にのみ込まれていた。

 赤と黒の縞模様のトンネルを落ちていく。愛染明王の六本の腕が灼熱地獄をかき回しているようだ。世界がゆがむ。頭がくらくらした。


 ――フッと目が覚めた。窓から外の日差しが差し込んでいた。いつの間にか眠りに落ちていたものらしい。

「どこから夢だったのかな」

 額に指を置いて考えても分からない。頬が濡れていて驚いた。隣では龍斗が寝ている。やはり意識は戻っていない。

 兄は病気ではない。肉体だけがここにあって、シノブヒメに魂を握られているのだ。そう確信した。

「リュウニイ、あれは誰よ?」

 龍斗の耳元で訊いた。思い描く女性の顔はしのぶ姫でもシノブヒメでもなく、榊真知子のものだった。

「まさか、榊さんと変なことはしていないわよね?」

 龍斗の耳がピクリと動いたような気がした。

「意識があるの?」

 改めて、観察しながら尋ねた。

「リュウニイ、答えて」

 兄は、ギリシャ彫刻のように反応しなかった。

 ――コツコツコツ――

 足音が近づいてくる。慌ててベッドを下りた。

「おはようございます。眠れましたか?」

 ドアを開けたのは、制服姿の榊真知子だった。

「アッ、ハイ……」

 脈が早まり背骨を電気が走る。

 彼女が龍斗の脈を取り体温を測る。

「身体を拭きますね」

 そう言って上掛けをはぐ。

 真惟は、彼女が龍斗の肌に触れる前に病室を飛び出した。逃げるように出口に向かった。

 リュウニイの身体もシノブヒメに取られてしまう!……不安と恐怖が涙に変わっていた。


 マンションに帰ると、ちょうど父親がエレベーターを降りたところだった。それに乗っていたのは、他にスーツ姿の中年男性が一人。知らない人だ。

 土曜日は休日のはずなのに、蓮司は毎週のように仕事にいく。辛そうな様子はないから、仕事が好きなのだろう。一緒にエレベーターに乗っていた男性も似たようなものに違いない。そんな父親を困らせたくて声をかけた。

「オトン、愛染明王って、分かる?」

「オトン?」

 蓮司が目を丸くして立ち止まった。龍斗は常日頃からオトンと呼んでいたが、真惟がそう呼んだのは初めてだった。

「どうした真惟、病気か? パパだぞ」

「ハズイじゃない」

 父親の傍らによってささやく。

「娘さんに口きいてもらえて羨ましいなぁ。お先に」

 一緒だった男性が微笑み、会釈してエントランスを出て行った。どうやらあの男性は、娘に相手にされていないらしい。少しだけ同情した。

「ねえ、愛染明王のこと教えて。パパ、何でも知ってるじゃない」

 二人だけになったのでパパと呼んだ。

「愛染明王? 聞いたことがあるような、ないような……。宗教は苦手だからなぁ。得意のスマホで調べてみたらどうだ」

「もち、調べたわよ。でも、漢字ばかりでムズイ」

「そうか、ママに聞いてみたらどうだ。前の旦那さん、つまりなんだ……」

「私の死んだお父さん」

「そう。その加茂の実家に、それっぽい掛軸があったような気がするな。仏具屋だから詳しいだろう。……おっと、電車に乗り遅れる」

 時計に目をやった蓮司は、慌てて行ってしまった。



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