第2話 見せる自由と、見ない男
次の日の朝、私はスマホに起こされた。
正確にはアラームに。
そしてもっと正確には、アラームを止めた指が、そのまま“いつもの場所”へ滑ったことに。
インスタ。
リール。
ショート。
目覚めたばかりの頭に、音楽と字幕と身体の動きが、容赦なく流れ込む。
今日も、鍛える女性たちが画面の向こうで汗を光らせていた。
ぴったりしたウェア。引き締まった脚。上げ下げされるバーベル。
頬を上気させた笑顔と、最後に入る決め台詞。
「昨日の自分に勝とう」
「自分の身体を好きになろう」
「努力は裏切らない」
——うるさい。
心の中で、私が先に声を上げた。
うるさい、というのは内容に対してじゃない。
“正しい感じ”が、うるさい。
私は自分が嫌になる。
だって彼女たちは努力している。健康的だ。明るい。前向きだ。
それを見て、何が嫌なの。
……嫌なのは、たぶん。
その「前向き」が、いつの間にかこちらの喉元に縄をかけるところ。
努力しろ。
変われ。
美しくあれ。
好きになれ。
自信を持て。
それらは命令じゃない顔をして、でも命令の形で、毎日少しずつ私の呼吸を浅くしていく。
私はスマホを伏せた。
布団の中で、深く息を吸って、吐いた。
……あの男みたいに。
その連想が出た瞬間、私は飛び起きた。
「最悪」
口からこぼれた声は、寝起きの喉に引っかかって変な音になった。
大学のジムは、昼になると人が増える。
私は普段ここへ来ない。運動が嫌いなわけじゃない。
ただ、ジムという空間には、どこか「採点」の匂いがある。
フォームの美しさ。
回数。重量。継続。
そして、目に見えないランキング。
今日は真琴に半ば引きずられて来た。
「しずく、散歩でもいいから動いたほうがいいって。思考が絡まってるときは特に」
「思考が絡まってるってなに」
「絡まってる。絡まってる顔してる」
真琴は笑い、受付で会員証をかざした。私は渋々あとに続く。
中へ入った瞬間、汗と消毒液の匂いが混ざった空気が肌に触れた。
鏡が多い。壁が白い。照明が明るい。
自分が、見える。
見えてしまう、が正しいかもしれない。
私は視線を落として歩いた。
すると、その先にいた。
黒い長袖。黒いジョガー。
昨日と同じように、いや、昨日以上に「余計なものがない」姿勢で、御影がマシンの前に立っている。
まるで、ジムの空気だけが彼の周りで整えられているみたいだった。
「いた」
真琴が、くすっと笑った。
「いるんだ……」
私は、なぜか敗北感を覚えた。
ここに来る理由を与えられたみたいで、腹立たしい。
「行く?」
「行かない」
「えー。せっかく“脱がないヌーディスト”に会えたのに」
「その呼び方やめて」
真琴は肩をすくめ、私から少し離れたトレッドミルへ向かった。
私は逃げ場を失った形で、その場に立ち尽くす。
御影は私に気づいていない。
いや、気づいていても、気づいていないように振る舞うのかもしれない。
——昨日の視線。
あれが頭の奥でまた疼く。
見ないことの丁寧さ。
それが「礼儀」なのか「拒絶」なのか、私にはまだ分からない。
そのとき、背後から声がした。
「春野さん?」
私は振り返った。
社会学のゼミで一緒の美咲だった。いつも笑顔が明るく、話題が軽やかで、何より自分の身体を隠すことに躊躇がない人。
今日もウェアはぴったりしたものだった。動きやすいのだろう。清潔で、似合っている。
彼女が悪いわけではない。むしろ好きなタイプだ。
でも、私の内側のどこかが、勝手に緊張する。
「珍しいね、しずく。ジム来るんだ」
「真琴に連れて来られただけ」
「分かる。私も最初そうだった」
美咲は笑って、すぐスマホを取り出した。
「今日の記録、撮っていい? ストーリーに上げるやつ」
「……どうぞ」
私は曖昧に頷く。
美咲が鏡の前で軽くポーズをとり、動画を回し始めた。
その瞬間、私の視界の端に、御影が映り込んだ。
黒い長袖のまま、黙々と動く姿。
光の中で、筋肉の“気配”だけが透ける。
美咲が言う。
「あ、あの人……御影さんだよね? なんか話題の」
私は胸がきゅっとなる。
「……そう」
「すごいよね、仕上がってるのに全然見せない感じ。逆に目いく」
——目、いく。
私は、その一言で自分の喉が乾いた。
美咲は悪気なく言ったのだ。観察の言葉。感想。
でも私は、その言葉を“評価”の箱へ放り込んでしまう癖がある。
美咲は動画を止め、くるりと振り向いた。
「ねえ、しずく。ああいうのってどう思う? 脱がないヌーディストって」
私の心臓が、一拍遅れて跳ねた。
どう思う。
どう思う、だなんて。
私は、どう答えたら“正しい”のかを探し始めてしまう。
見せない自由。
選ぶ自由。
身体の政治。
視線の暴力。
自己決定。
いくつもの言葉が頭の中で服みたいに重なっていく。
重ね着のまま、私は息が浅くなる。
「……べつに」
口から出たのは、あまりに薄い言葉だった。
美咲は肩をすくめた。
「まあ、他人の自由だしね。私は見せたいから見せるけど。伸びるし」
伸びるし。
その軽さが、少し羨ましかった。
私は逃げるように、給水機のほうへ歩いた。
水を飲み、喉を冷やし、呼吸を整えようとする。
なのに、心は整わない。
私の視界の先で、御影がタオルを持ち替えた。
動作が静かで、いちいち丁寧だ。
自分の身体を道具として扱う人の所作。
私の中で、何かがぷつりと切れる音がした。
私は、給水機から離れ、御影のほうへ向かってしまった。
——やめろ。
——いま行ったら、空回りする。
分かっている。分かっているのに、足が止まらない。
御影は気配に気づいたのか、ゆっくりこちらを見た。
目。
静かな、黒に近い目。
「……こんにちは」
私が言うと、御影は軽く会釈した。
「こんにちは」
それだけ。
「……質問、していいですか」
「どうぞ」
“どうぞ”の音が、ひどく柔らかい。
受け止める準備が最初からある声音。
それが、また腹立たしい。
「SNSで、トレーニング動画とか、流れてくるじゃないですか」
「はい」
「女性が、身体のラインが出る服で……本人が上げてるやつ」
「よく見ます」
よく見ます。
私はその言葉に、反射で身構えた。
「どう思いますか」
御影は一瞬だけ考えた。
そして、答えた。
「その人が選んでいるなら、尊重されるべきだと思います」
教科書の答え。
正しい答え。
でも、私はそれが欲しかったわけじゃない。
「……じゃあ、エロい目で見られても?」
言ってしまってから、後悔した。
言葉が鋭すぎる。刃になっている。
御影は眉を動かさなかった。ただ、視線を少し落とした。
「……見る側の問題ですね」
「……」
「少なくとも僕の話ではありません」
その一言が、胸に刺さる。
私は、なぜこんなに苛立っているのか。
彼が悪いわけじゃない。
彼は、私を傷つけていない。
それなのに。
私は、もう一歩踏み込んでしまう。
「ずるいんですよ」
自分でも驚くほど、素直な声が出た。
御影が目を上げた。
「みんな必死なんです。見せたり、隠したり、強く見せたり、可愛く見せたり……」
言葉が止まらない。
「なのに、あなたは鍛えてるくせに、誇らない。見ない。比べない」
私の声は、だんだん荒くなる。
怒っているふりをして、実は何かを求めている声。
「それって、逃げじゃないんですか」
沈黙。
ジムの音が遠くなる。
誰かがプレートを置く音。ランニングマシンの一定の振動。
全部、背景に押しやられる。
御影は、少しだけ息を吸った。
「……逃げ、かもしれません」
私の胸が、意外で硬くなる。
「でも」
御影は私を見た。視線が真っ直ぐなのに、圧がない。
「誰かの身体を、自分の正しさの材料にしないための逃げです」
私は、言葉を失った。
正しさの材料。
——私は、いま、まさに彼を材料にしていた。
“男の身体語り”への嫌悪。
“見せる女性”への戸惑い。
“見ない男”への苛立ち。
それらを束ねて「私は正しい側にいる」と言いたかっただけでは?
その気づきが、恥ずかしさより先に、疲労として来た。
私は、視線を落とした。
「……すみません」
御影は首を振った。
「謝らなくていいです。あなたは、考えている」
その言葉が、優しいのに苦しい。
考えている。
それは褒め言葉なのに、私は泣きたくなる。
真琴が遠くからこちらを見ているのが見えた。
助けに来ないで、という顔をしている。私が自分で転んで起きるのを待っている顔。
私は一歩引いた。
「……失礼します」
御影は軽く会釈を返す。
「また」
また。
その短い言葉が、妙に現実的で、胸に残った。
帰り道、私はスマホを開かなかった。
開けばまた、いろいろな価値観が流れ込んでくる。
正しい言葉、強い言葉、眩しい身体、羨ましい自由。
今日は、もう着込めない。
私は自分の息を確かめるように、胸へ手を当てた。
そこには、さっき御影に言われた言葉が、薄く熱を持って残っていた。
「誰かの身体を、自分の正しさの材料にしないための逃げ」
逃げ。
それは悪いこと?
それとも、優しさ?
私はまだ分からない。
でも、分からないままでも、歩ける気がした。
真琴が横で言う。
「しずく、今日のあなた、最高に面白かったよ」
「最悪の間違いでしょ」
「ううん。ちゃんと生きてた」
私は返事をできず、ただ苦笑した。
夕方の風が頬を撫でる。
あの公園の匂いが、一瞬だけ蘇る。
——見ない視線。
——見てしまう私。
その矛盾を抱えたまま、私は歩く。
つづく
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