反響
全ては楓のせいだ。
この陰鬱な梅雨も、クラスの重苦しい空気も、自分の心にまとわりつく得体の知れない恐怖も、小夜の呪いも。
もし楓がいなくなれば全てが元に戻る。いや、元に戻るのではない。もっと良い方向に変わるはずだ。
佐野はそう確信した。この閉塞感を打ち破るためには、楓という存在を排除するしかない。
彼女の中でそれはまるで絶対的な真理のように響いた。
「追い詰めて、追い詰めて、確実に殺す……」
口から漏れた言葉は鉛のように重く、湿気を吸った空気の中に沈んでいった。
佐野は自分の声が自分のものではないかのように感じた。乾いた喉の奥から絞り出すように言葉を紡ぐ。
それは心の奥底で凍りついていた何かがゆっくりと解け出し、禍々しい熱を帯びていくかのような感覚だった。
彼女の指先が手を握りしめるあまり、白く変色していた。その白さがまるで血の気を失った死人のようだった。
しかしその瞬間、佐野の耳にか細い囁きが聞こえた。それは窓の外の雨音にかき消されそうなほど微かで、しかし、佐野の耳の奥に直接語りかけるように響いた。
『違う……』
それは雛川小夜の声だった。
幻聴だ。佐野は頭を激しく振った。こんなところに小夜がいるはずがない。
小夜はもう死んでいる。だがその声は、佐野の耳にまとわりつき心の奥底を揺さぶり続けた。
薄暗い教室の隅、誰もいないはずの場所に白い影がちらついたような気がした。
それは透き通るような肌をした小夜の姿で、しかしその顔には深い悲しみが宿っていた。
佐野は息を呑んだ。幻覚だ。疲れているのだ。そう自分に言い聞かせた。
だが小夜の影はまるで佐野の心に巣食う罪悪感を映し出すかのように、薄闇の中に存在し続けた。
その視線が佐野の心を締め付ける。小夜の何も語らない目が、まるで「違う」と訴えかけているように感じられた。
「黙れ……! お前は、もう…」
佐野は思わず叫びそうになったが間一髪で言葉を飲み込んだ。
周りのクラスメイトたちが顔を上げてこちらを見ているような気がした。
錯覚だ。誰も佐野のことなど見ていない。見ていないふりをしているだけだ。その無関心が、かえって佐野の心を苛む。
小夜の亡霊は佐野の歪んだ確信を嘲笑っているようだった。
それは佐野自身の内側から湧き上がる、抑圧された良心の声だったのかもしれない。
どんな手を使っても井川楓を自殺に追い詰める。
それが今、佐野の心の中で確固たる決意となっていた。
手紙は既に意味を失い、ただの道具と化していた。その紙切れが佐野を抗いがたい破滅へと導く誘蛾灯のように見えた。
彼女の心はもはや恐怖や悲しみではなく、純粋な憎悪と自己保身の感情で満たされていた。
時間は刻一刻と過ぎていく。この淀んだ世界に終止符を打たなければならない。
佐野は湿り気を帯びた窓ガラスの外に目を向けた。鉛色の空から糸のように細い雨がとめどなく降り注ぎ、校庭の隅に植えられた紫陽花がまるで生気を吸い取られたかのようにうなだれている。
雨音は佐野の耳元で囁き続ける小夜の声と混じり合い、どこか遠くで鳴っているサイレンのように不気味に響いた。
『違う……』
声はより鮮明に、より強く佐野の鼓膜を震わせた。幻覚の小夜は薄暗い教室の奥から、一歩、また一歩と佐野に近づいてくる。
その足音は聞こえない。ただ透明な存在がゆっくりと、しかし確実に佐野の領域を侵していく。
その顔には先ほどまでの悲しみとは違う、強い非難の眼差しが宿っていた。まるで佐野の心の中を全て見透かしているかのように。
「うるさい……! 黙れって言ってるだろう!」
佐野はほとんど無意識にそう口走っていた。いや、口走った様な気がしていただけだ。
声は掠れ雨音にかき消される程の声にもならない様な音で、誰の耳にも届かなかった。佐野は内心安心しつつ周りを見る。
周囲の席では元取り巻きの女子たちがまたしても無関心な顔で漫画を読んだり、爪をいじったりしている。
そのどうでもよさそうな態度が佐野の心に再び苛立ちを募らせた。
なぜ誰もこの異常な状況に気づかないのか。なぜこの重苦しい空気を誰も感じないのか。
そう、全ては楓のせいだ。
彼女がいなくなれば全ては元に戻る。
いや、もっと良くなる。
楓を排除する。楓をこの世界から消し去る。
そうすれば全てが終わる。この重苦しい空気も、小夜の亡霊も、自分を苛む罪悪感も、全て消え去るはずだ。
彼女の思考はもう後戻りできない地点にまで達していた。梅雨のじめじめとした湿気と教室の淀んだ空気が佐野の焦燥感を一層募らせる。
時間がない。
「早くしないと……」
小夜の幻影は、佐野の目の前、手を伸ばせば触れられそうな距離まで来ていた。
『あなたは、何もわかっていない……』
小夜の声は再び佐野の心に直接語りかける。
それは嘲笑ではなく純粋な悲しみと失望に満ちた声だった。
だが佐野の耳には、その言葉が自分の選択を否定し嘲る響きにしか聞こえなかった。
「違う! 私は、わかってる! 楓を消せばこの苦しみは終わるんだ!」
佐野はまるで自分を納得させるかのように、あるいは小夜の幻影を言い聞かせるかのように必死に自分自身の解釈を小さく叫んだ。
喉が枯れ声にならない声が雨に溶ける。
目に熱いものが込み上げてくる。
それは涙ではなく純粋な怒りだった。
彼女の視界は小夜の幻影と窓の外の灰色の世界で歪んでいった。
その瞬間佐野は確信した。小夜が自分を止めようとしているという事は、自分は間違っていいなかったのだと。
むしろ「早く」なんとかしないと、小夜に呪い殺されるよりも早くしなければと考える。
彼女のあの孤独な目、理解を拒絶する瞳はいつもそうだった。
言葉の裏に隠された真意を、歪んだ形で受け取ってしまう佐野の思考回路が、今、小夜の存在を完全に自己の都合の良いように変質させた。
時間がない。このままでは自分自身もそこら中に蔓延する小夜の呪いに飲み込まれてしまう。
佐野はガタリと椅子を引いて立ち上がった。
その音は静まり返った教室に妙に響いたが、やはり誰も彼女に注意を払う様子はない。
彼女の指先はひどく冷たかったが、その心臓は激しく高鳴っていた。まるで生まれたばかりの邪悪な衝動が全身を駆け巡っているかのようだ。
「……やってやる」
佐野は誰もいない教室の空間に、決意を囁いた。その声は震えてはいなかった。
雨の音が窓の外で一層激しさを増す。
土砂降りの雨が佐野の決意を祝福しているかのように降り注いだ。
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