第2話 チャラ男ムーブ

side水瀬心菜

「……水瀬」


 名前を呼ばれて、私はブランコを止めた。

 夕方の公園は、子どもたちも帰ったあとで、風に揺れる木の葉の音だけがやけに大きい。


 顔を上げても、視界はにじんだままだ。

 誰かが立っているのはわかるのに、輪郭が曖昧で、はっきりしない。


 次の瞬間、頬に温かいものが触れた。


 驚いて身を引こうとするより早く、親指が目元をなぞる。

 涙を、拭われている。


「……泣いてどうしたんだよ」


 その声で、胸が小さく跳ねた。


 夕焼けの光と一緒に、視界が少しずつ戻る。

 見えたのは——黒瀬蓮だった。


(……なんで、この人なの)


 よりにもよって。

 今の私の気持ちを、いちばん理解できなさそうな人。


 ブランコの鎖が、きい、と音を立てる。


「なに?」


 私はできるだけ冷たい声を作った。


「泣いてる女子をたぶらかしに来たの?」


 黒瀬は一瞬目を丸くして、それから困ったように笑った。


「そうかもな」


 軽く言うその態度に、胸の奥がざらつく。


「……最低」


「でもさ」


 彼は私の隣のブランコに腰を下ろした。

 重みで、ブランコがわずかに揺れる。


「どっちにしろ、水瀬が泣くくらいなんだ。相当だったんだろ」


 公園の外を車が通り過ぎ、遠くで犬の鳴き声がした。


「一緒には、いてやるよ」


 その一言に、思っていたよりも心が静かになる。


(……どうして)


 噂通りなら、もっと軽い言葉を言うはずなのに。


 それが怖くて、私は反射的に突き放した。


「……私のなにがわかるのよ」


 黒瀬は少し考えるように、ブランコを足で揺らす。


「全部はわからないよ」


 そう前置きしてから、少しだけ笑った。


「でも……失恋、した?」


 胸が、ぎゅっと縮む。


 答えられずに黙っていると、風が吹いて木の葉が擦れ合った。


「……どうして、そう思うの」


「水瀬みたいにさ」


 彼は夕焼けを見上げる。


「しっかりしてる人が、ブランコ乗りながら泣く理由って、それくらいかなって」


「なにそれ……」


 私は唇を噛んだ。


「私をバカにしてるの?」


「違う」


 即答だった。


「バカになんてしてない」


「……」

「……」


 沈黙が落ちる。

 ブランコが、ゆっくり前後に揺れる音だけが響く。


「……俺、用事あるから」


 黒瀬が立ち上がる気配がした。


「そろそろ行くね」


「……はい。ご勝手に」


 素っ気なく返したのに、足音が遠ざかるのが妙に気になった。


 砂を踏む音が、数歩分。


 ——そこで止まる。


「委員長」


 呼ばれて、顔を上げた瞬間。


 額に、やわらかな感触。


「……え?」


 息が止まる。


 ——キス。


「今日はさ」


 少し照れたような声で、彼は言った。


「全部、俺のせいにしていいから」


 そう言い残して、黒瀬は逃げるように走り去った。


 公園に、再び静けさが戻る。


 私は額に手を当てたまま、動けなかった。


 頬が、熱い。

 胸が、うるさい。


 さっきまでの痛みが、どこかへ消えていた。


(……なに、これ)


 失恋の悲しみよりも、

 彼の残した温度のほうが、ずっと強かった。


 

 いつのまにか家に帰ってきてた。

 家の玄関を開けると、いつもと同じ匂いがした。

 それだけで、少しだけ現実に引き戻される。


「ただいま……」


「おかえりなさい」


 台所から返事が聞こえる。

 靴を揃えながら、胸の奥を探る。


(……失恋したはず、なのに)


 苦しい、泣きたい、そんな気持ちになると思っていた。

 なのに、頭に浮かぶのは——


(……あいつの顔)


 夕飯の席でも、ぼんやりしていたらしい。


「心菜、どうしたの?」


 母が箸を止めて、私の顔を覗き込む。


「……え?」


「なんだか顔赤いし、元気ないじゃない。風邪でもひいた?」


「ち、違うってば」


 慌てて首を振る。


「ほんとに? ちゃんと食べなさいよ」


「……うん」


 味は、よくわからなかった。

 噛んで飲み込しているはずなのに、頭の中は公園のままだ。


(どうして……)


 あんなこと、される理由がない。


 食器を片付けて、逃げるようにお風呂へ向かった。


 湯船に浸かると、身体の力が一気に抜けた。

 湯気が立ちのぼり、鏡が曇る。


 私は肩まで沈み、天井を見上げる。


(……なんで、あいつが)


 黒瀬蓮。

 噂ばかりの人。

 近づくべきじゃない人。


「ほんと、最低……」


 独り言が、浴室に小さく反響する。


「噂通りの人だったらさ」


 湯船に浮かぶ泡を指でつつきながら、ぼそりと言う。


「失恋の悲しさを忘れるために、使わせてもらいましょ」


 言ってから、胸が少し痛んだ。


(……でも)


 あのときの目は、そんな軽いものじゃなかった。


 私は顔を半分、お湯に沈める。

 ぶくぶく、と小さな泡が上がる。


(……少しは)


 お湯の中で目を閉じる。


(少しは、感謝してもいいのかもね)


 失恋の痛みを、全部消してくれたわけじゃない。

 でも、あの一瞬だけ、呼吸ができた。


 額に残る感触を思い出して、私は慌てて首まで沈んだ。


(……明日、顔合わせたらどうすればいいのよ)


 お湯の中で、心臓の音だけがやけに大きかった。



















side黒瀬蓮

 公園を出て、夜の風に当たりながら歩く。

 スマホの画面には、これから向かうバイト先の時刻。


(……やっぱり)


 頭に浮かぶのは、ブランコに座って泣いていた水瀬心菜の姿だった。


(失恋、したんだよな)


 たぶん相手は——

 考えなくてもわかる。中村悠斗。


 正直に言えば、俺にとってはチャンスだ。


 ずっと好きだった人が、他の男を想っていた。

 結局、諦めきれずに彼女も最近は作ってない。

 それが終わったのなら、希望はゼロじゃない。


 ……でも。


(嬉しい、なんて思ってる時点で最低だな)


 水瀬からしたら、相当きつかったはずだ。

 表に出さない人ほど、内側で無理をする。


 だから俺は——

 変なことをした。


(俺を意識させて、失恋の悲しさを紛らわせようとか)


 完全に、チャラ男ムーブ。


 自分で思い出して、思わず顔をしかめる。


(額にキスとか……やりすぎだろ)


 勢いだった。

 逃げるように立ち去ったのも、正直ビビったからだ。


(嫌われなきゃ、いいけど)


 噂通りの男だと思われてるのは、もう慣れてる。

 でも、水瀬だけには——


 嫌われたくなかった。


 交差点の信号が赤に変わる。

 立ち止まって、深く息を吐いた。


(……明日、どうなるんだろ)


 何事もなかった顔で話せる気がしない。

 でも、後悔はしていない。


 あのとき、泣いている彼女を放っておけなかった。

 それだけは、本当だ。


 信号が青に変わる。


 俺は気持ちを切り替えるように前を向いた。


 ——バイト先は、もうすぐだ。




——— ——— ——— ———


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