平坂邸の大きな池

夏多巽

第1話

「とにかく、早急に解決しなければいけない問題なんです」


 陣内じんない栄輝えいきは握り拳を見せつけ、力強く言った。

 彼は三十代半ばの精悍な男だった。身長は百八十センチほどで、肉づきのよい体をしている。新宿区に法律事務所を構える弁護士で、若くして十分な財産を持ち、周囲からは将来性のある男だとみなされていた。


 そんな男が今、十代の少女を相手に必死な表情で懇願している。


 早水はやみ皐月さつきは微笑みながら頷いた。


「ええ、わかります。突然殺人事件に巻き込まれたとなれば、誰もがそう考えるでしょう。平穏な日常が乱され、ましてや殺人者と疑われるのは看過できません」

「おわかりいただけますか。皆が不安に駆られているんです。なにせこんなこと初めてですから。ここのところずっと空気が張りつめていて――どうにかしないといけないと考えたんです」


 陣内は皐月の隣に座る相田あいだみのるを見やった。


「でも、僕一人ではうまい方法が思いつかなかったから知り合いの相田弁護士せんせいに相談したんです。すると、息子の稔くんの友達が貴女だと教えてもらって――これはもう天の助けだと直感したんです!」

「頼っていただけるのは悪い気はしません。しかし、私も所詮一介の小娘。警察の捜査に口出しできるような立場ではありません。どれほど力になれるかは未知数です」


 陣内は笑った。


「謙遜しないでください! なにも貴女から警察に対して一言お願いしたいと頼むつもりはありません。僕は貴女の噂も聞いているんです。過去に殺人事件の解決に寄与した実績があるそうじゃないですか」

「幸運と、頼れる友人に恵まれただけです」


 皐月は心の底からそう言った。稔は笑顔だったが、どこか引き攣っているようにも見えた。皐月の言う“頼れる友人”という言葉に、普通の“友人”とは異なるニュアンスを感じ取ったからだ。


「つまり、陣内さんは警察の捜査に不満があり、このまま任せてはおけないと考えた。そこで私に調査してほしいというのですね?」

「端的に言えばそうなります。警察はあちこち突いているわりに、ほとんど進展がないみたいなんです。今のままではいつ解決できることやら」


 陣内は露骨に不満を口にした。

 皐月は「ふむ」と呟いた。


「わかりました。では、事件について詳しいお話を聞かせてください」


 陣内は頷いた。


「わかりました。まずは僕の友人の平坂ひらさか敬晃よしあきについてお話ししましょう。平坂は《平坂興産》の創業者一族に生まれ、五年前に社長に就任しました。既にご存じでしょうが《平坂興産》は神戸に本社を置く自動車部品のメーカーで、国内でも高い知名度を持ちます。まあ、早水グループと比べれば大したことないでしょうけど。」


 皐月は過去に《平坂興産》の社長と顔を合わせた時のことを思い返した。早水家が主催したパーティに出席していた彼は、その時六十に差しかかろうとしていた。当時の社長は傍目からは健康そうに見えたが、それから間もなく病に斃れてこの世を去った。


「僕は平坂と大学時代に仲良くなりました。あいつは東京の大学に通うために、しばらくこっちで暮らしていたんです。学部は違いましたが、ボルダリングサークルで一緒になりましてね。卒業後も交友関係は続いていました。大体年に三、四回は逢っていましたね。その度に親しい友人同士で集まって騒ぐんです。あの時もそうでした。五月の中頃に平坂から神戸の邸へ来ないかと誘われたんです」


 陣内はそう言って一息吐いた。


「僕たちは六月三日に邸に集まりました。メンバーは僕と平坂、平坂の奥さんの那緒子なおこさん、平坂の妹の絵麻えまさん、大学の同期だったもり文吾ぶんご、那緒子さんのお兄さんで《平坂興産》の本社役員の樫山かしやま純也じゅんやさん。それから邸の使用人の夫婦を合わせて八人です。

 初日の昼頃に全員集まって、一緒にテニスやゲームを楽しみました。仲間内で全員集まるのは久しぶりのことで、話が弾みました。僕と森と絵麻さんは東京に住んでいて、全員が集まる機会はなかなかありませんから。特に絵麻さんは《平坂興産》の東京支社のトップですからね。お互いのことについていろいろと語り合いましたよ」


 陣内は一度言葉を切ると、表情を歪めた。


「その日は本当に楽しく過ごせました。でも、まさか次の日にあんなことになるとは夢にも思っていませんでしたよ。

 翌日は昼から庭でバーベキューをする予定を立てていました。午前中に準備を済ませた後、しばらく自由に過ごすことになって、僕は庭にある池の周囲を平坂と一緒に散歩していました。平坂の家の敷地内には大きな池があるんです。金持ちの道楽というんでしょうか。なかなか立派な池なんですよ」

「へえ。流石は平坂家のお屋敷ですね」


 稔は形式的な称賛を口にした。彼は早水家の本邸敷地内にも池があることを知っていた。実際に観たことはないが、恐らくそれが平坂家の池よりはるかに素晴らしい出来栄えであるだろうと予想していた。


 陣内はお茶で喉を潤すと、話を続けた。


「歩きながら平坂がこんなことを言いました。“そうだ。君にはまだこの池で起きた事件のことを話したことはなかったよな”と。僕は何度もあの邸を訪れていましたが、その話を聞くのは初めてでした。

 彼が言うは五十年以上前に、池で子どもが溺れて死んだことがあったそうです。亡くなった子は平坂の伯父――つまり、前社長のお兄さんに当たります。当時は八歳かそこらだったと。池の周りで遊んでいる時に誤って落ちて、そのまま溺れ死んだという話です」


 皐月は何故陣内がこのような話をするのか気になったが、彼の真剣な表情を見て話を聴き続けることにした。


「ところが、平坂は笑いながら言ったんです。“実はこの話には曰くがあってね。この死んだ子どもというのが従兄――俺の伯父に当たる人の息子と一緒に遊んでいたらしいんだが、どうもこの子に殺されたそうなんだ”――と。

 というのも、その池はそんなに深くなくて、いくら子どもといってもそう簡単に溺れて死ぬような深さではないんです。それが疑いの切っ掛けになって調べてみると、どうやら従兄の少年に頭を池に無理矢理沈められて殺されたとわかったそうです」


 稔は思わず身震いした。皐月は冷静であったが、不快そうに眉を顰めた。


「この死んだ子どもというのが幼くしてとても優秀な子で、祖父に大層可愛がられていたらしいんです。それに比べて従兄の子は凡庸でぱっとしなかったとか。二人の父親も同じような関係で、死んだ子の父親の方を跡継ぎにしたいという話が持ち上がっていたといいます。その評価は子どもに対しても同じで、亡くなった子の方が周りからちやほやされていたと平坂は言いました」

「そんな中、事件が起きた。理由は恐らく妬み」


 皐月が原因を推測してみせると、陣内は頷いた。


「そういう話みたいです。平坂が言うには、この事故の後に問題の子の父親は勘当されているんです。世間体を考えて事件は明るみにせず、親子喧嘩が原因の勘当ということにしたといいます。平坂は“死んだ親父には悪いけど、俺もそいつの気持ちは正直わかるよ。心底腹の立つ相手がいたら沈めてやりたいと思うことがある”と、にやにやしながら語っていました。

 その時は、不気味な話を随分面白そうに語るなとちょっと呆れながら聞いていました。でも、後になって平坂の遺体が池で発見した時、僕はその話をすぐに思い出しましたよ」

「ほう!」


 皐月は事件への興味に、唇の端を上げた。


「夕方の六時を過ぎた頃でした。那緒子さんが僕のところに来て平坂がどこにもいないと言うんです。いつもはその時間になると自室にいるはずなのに今日はいないと。電話をかけてもまったく出ません。それで僕と森、樫山さんの三人で手分けして探すことにしました。しばらく探し続けましたがどこにも見当たらず、困っていたところで池の周りを散歩したことを思い出したんです。それで池の近くを重点的に探そうと考えました。そうしてじっくり辺りを見回しながら歩いていると、池の中から何か棒のような物が伸びていることに気づいたんです。なんだろうと思って近づいて覗いてみると、平坂が池の中に沈んでいたんです」

「まるで過去に起きた事件のように、ですね」


 皐月が言った。


「ええ、そのとおりです。ただ、その話と違う点が一点だけあります。昔の話では男の子の死因は溺死でしたが、平坂は矢で射られて死んでいたんです」

「矢ですか?」


 思いもしない単語が出てきたことに、皐月は目を細めた。


「平坂はクロスボウを所有していたんです。そのクロスボウが池から離れた場所に落ちていました。池から突き出ていた棒は、平坂に刺さった矢だったんです」

「クロスボウを趣味にしている人は、日本だとあまり多くはいませんよね」


 稔が言った。


「そうですね。でも、平坂は昔からスポーツは何をやらせてもうまくいく奴で、クロスボウの扱いも上手だったんです。アマチュアレスリングの大会にも出場したこともあります」

「それはまた。征四郎せいしろうが気に入りそうな人物だ」

「違いない」


 友人の中で一番運動が得意な指宿いぶすき征四郎の顔を思い出し、皐月と稔が笑い合う。


「一つお訊きしたいのですが、凶器のクロスボウはどこで保管していたのですか?」

「平坂の書斎に保管用の金属ロッカーがあります。普段は鍵をかけているんですが――」


 陣内は他に誰もいないのに、内緒話でもするかのように声を潜めた。


「鍵の在処は皆知っているんです。何度も出入りしている家ですし、平坂自身も会話の中で漏らしたことがありました。鍵を持ち出そうと思えば誰でも持ち出せたと思います」

「なるほど」


 陣内が“誰でも”という部分を無意識に強調したことを、皐月は聞き逃さなかった。


「そういうわけで皆が平等に疑われているんです。事件が起きた後はしばらく邸に留まるよう警察から言われて、スケジュールを変更するのに手間取りました。今はこうして東京へ戻れましたが、疑いが晴れたわけではありません。昨日も兵庫県警の刑事が家に来ましたよ。まあ、僕だけでなく絵麻さんや森にも話を訊きに来たみたいですけどね」

「よくわかりました。そうして悩んだ末に私の元へ来たと」

「そのとおりです」


 陣内は力強く肯定した。

 皐月は顎に手を添えて、考える仕草を見せた。


「追加でいくつか質問させてください。平坂さんが殺害される理由について心当たりはありますか?」

「《平坂興産》は大きな会社ですから、トラブルの一つや二つはあります。ただ、僕は詳しい内容まで聞かされていないんです。僕は東京支社の顧問弁護士を任されていますが、本社の内情は平坂も積極的に話そうとはしませんでした」

「事件当日に邸にいた人たちとの間でトラブルはありましたか?」


 皐月がそう訊くと、陣内は顔色を変えた。


「それこそありませんよ!」

「貴方が遺体を発見した時、遺体や現場に気になる点はありましたか?」

「すみません。あの時はもう辺りが暗くなっていたので、周囲の状況はほとんど見てないんです。遺体を見つけた後はすぐにリビングへ入って那緒子さんに報せたんですよ」


 稔が口を挟んだ。


「僕からも質問させてください。遺体を発見した時、邸の中には全員いましたか? あるいはバーベキューの後に外出した人は?」

「使用人の男性が買い出しに出かけたよ。バーベキューの後から夕方までずっと出ていたかな。平坂を池で見つけたのは、彼が帰ってから三十分くらい後だったと思う」


 陣内は、知り合いの稔には気安い調子で答えた。


 皐月は顎に手を添えたまま黙していたが、やがて優雅な微笑みを見せた。


「わかりました。私たちでその事件を調査してみましょう」

「よろしくお願いします」


 皐月と陣内は握手した。陣内の握る手が微かに震えていたが、皐月は何も気づかないふりをした。


「僕は普段新宿の事務所にいるので、何かあればご連絡ください。森と絵麻さんにもこのことはお伝えしておきます」

「ええ。お話に伺うことがあると思います」

「でも、神戸に向かうのは難しいよね?」


 稔が気になって訊ねると、皐月は微笑んだ。


「早水グループから信頼の置ける調査員を派遣するつもりだ。過去に幾度となく犯罪調査をしてきた実績のある優秀な人物だ。任せて大丈夫だろう」

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