舞台の幕があがるとき 〜あいつが消えた理由を、俺はまだ知らない〜

六条菜々子

第1話 銀座ルーチェ劇場

 銀座ルーチェ劇場……ここが俺の住処だった。所属している劇団、フィラメントの公演中は、開演前とあとに、周りにある歩道を人が埋め尽くすほどの人気だった。


 その日は舞台「オセロ」の稽古が終わり、俺はなかなか覚えられない脚本とにらめっこしながら、気だるげな身体を舞台の上に寝転がらせていた。


 そんな俺とは対照的に、劇場の舞台袖は、稽古終わりの熱をかすかに残したまま静まっていた。客席側の照明は落ち、薄い作業灯だけが舞台の端を照らしている。目線を客席のほうへ向けると、作業灯に照らされ、舞台を見ている透が目に入った。


「透、お前まだ居たのかよ」


 そう言いながら、腹筋に軽く力を入れて、身体をぐっと起こした。首筋の汗はほとんど乾きかけていて、息も不思議なほど乱れていない。むしろ、いつもよりも呼吸が整っている気がした。


 上手側から、通路に続く階段を下り、透のほうへと近づいて行った。俺は手に持っていたペットボトルのふたを開けて、水をひと口飲み、静かに隣へ立った。


 透とのあいだにはしばらく言葉がなく、照明の薄い光だけが揺れていた。


「なあ透。稽古のあとでも全然疲れた顔しねぇよな」


 透は横を向かず、声だけこちらに返した。


「……役を降ろすまでは、素顔を出せないんだよ」


 その言い方があまりにも自然で、返す言葉が遅れてしまい、笑うつもりだった口を途中で閉じた。役者だからそうしている、という簡単な話のはずなのに、どこかそれ以上の意味を含んだ言葉のように聞こえて仕方がなかった。


「役者だな、お前」


 そんな心の動揺を隠すために、まるで軽口を叩いているように言った。けれど、視線の先は透の横顔に吸い寄せられたまま、動かせそうになかった。


 はっきりと見えない透の顔は、暗がりの中でも輪郭ははっきりしているように感じた。それが役者への熱意なのか、それともなにも考えてないのか、明確な言葉にすることはできなかった。


 再び喉が渇き始めたころ、俺は透に声をかけて劇場を出た。


 *


 舞台終わりによく立ち寄っていた店が、劇場の裏路地にあった。喫茶ミルクホール。喫茶と名は付いているが、夜は酒場になるという一風変わった店だった。すでに夜遅くとなっていたため、ミルクホールに入ると静かなジャズが流れていた。


 木製のドアを開けると、カランコロンと軽やかな鈴の音が響き、それに気づいたマスターが軽く頷くだけで席を示してくる。ほっとひと息つけるような、安心できる無言の合図だった。

「なあ、透はもう脚本覚えたか?」

「なんだそりゃ? 覚えたに決まってるだろ。リハーサル始めるの、何日後だと思ってんだよ」

「わかってるよ。何回口にしても、今回のはすっと入ってこないんだ」


 透は、脚本を三日もあれば覚えきる。なのに、俺は一週間経っても覚えられない。

 自分に対する怒りがこみ上げてきたところで、湯気の立つコーヒーがテーブルに置かれた。カップの取っ手は、いつもと同じ角度でこちらを向いている。


 ブレンドコーヒーの味は、その日のマスターのさじ加減で決まる。豆に関して特別詳しいわけでもなく、俺はただこうして喫茶店に時々訪れて飲んでいるだけだった。端的にいえば、一口飲んですぐに顔をしかめてしまうくらいには、コーヒーの苦さは得意ではなかった。


「……にが」


 そんな俺とは対照的に、向かいにいる透は、静かにカップを持ち上げ、香りを細かく味わうように目を伏せながら、一口…また一口…とじっくりと飲み進めていた。


「苦いのも、慣れればいい。……コーヒーも、人生も」

「またそういうこと言う。さては、マスターの受け売りだな?」

「バレたか」


 冗談を言っているつもりなのだろうが、俺にはとてもそう聞こえなかった。言葉の端が全然軽くなかった。独特な重い、ずっしりとした響きが、透の声にはときどき混じる。


 その深みのある声が、たまらなく欲しかった。舞台の空気を支配できる、その唯一無二といってもいい、少年のように透き通った声と、陰りが見え隠れする深みのある声が。それは、天城透あまぎとおるにしか出せない声だと、俺は心の底から思っていた。


 胸のあたりに違和感が出るほどに、もやもやとしていた。少しでも楽になるためにそっと息を吐いていると、透の鞄が九十度ほど回転して床に着地した。ずんと叩きつける音が鳴ったあと、カセットテープが鞄から床に落ちた。


「しまった……」

「大丈夫か?」


 透は、かがむようにして透明のケースを取った。傷が無いかケースをぐるっと回して確認する様子を見ていると、そこには小さく「Tooru」と手書きのラベルが貼られていた。こんなに字が綺麗だったんだなと感心していたが、俺はあることに気づいてしまった。


「まだカセットテープなんて使ってんのかよ」

「デジタルの録音は微妙なんだ」

「微妙?」

「稽古の記録。これじゃないと息づかいまで残らないから」


 俺が唯一認めた男だ、その説明は間違っていないのだろう。しかし、もうこの話は終わりだと言わんばかりに、ケースを鞄に素早い動きでしまったのは『見られたくない何か』を隠しているようにも見えた。


 いつの間にか、店内の客は俺たちを除いていなくなっていた。ただ、マスターがカウンターで静かにカップを拭く音だけが、店内の空気を仕切っていた。もう夜更け間近ということもあり、会計を済ませてさっさと出ることにした。


 *


 外へ出ると、雨があがったあとの香りが満ちていた。稽古が終わる前まで、パラパラと雨が降っていたのだ。


 空を見上げると、雲もなく月の明かりが差していた。この様子だと、このあとも雨は降りそうにない。石畳に残る雨水が、裏路地にあるネオンの光を細かく揺らしている。湿ったアスファルトに、雨の香りが混じりあって、どこか冷たい。


 最寄り駅までの通り道にルーチェ劇場がある。歩いていると、劇団の古いポスターが貼られている壁の前で、透がふと足を止めた。紙の端が湿気を吸ってめくれかけている。透はその端に指先を触れた。


「……消えていくものって、きれいだよな」


 その言葉は、ポスターに向けたものなのか、自分に向けたものなのかわからない。ネオンの反射が水たまりに揺れ、透の横顔も同じように揺れて見えた。まるでその言葉は、透が自分自身に向けて言っているような、そんなふうにしか捉えられなかった。いや、もしかすると、俺自身に向けて言っているのかもしれない。


 それに続くような返事をしようとしたが、言葉が選べなかった。否定する理由も肯定する理由もない。ただ、胸の奥でざらつきが広がるだけだった。確かにそうだ。やがて終わってしまうからこそ、綺麗に見えるものはたくさんある。


 たとえば、今回の公演一つとっても、千秋楽の日は決まっている。それまでに何度も何度も演じるからこそ、それぞれが磨かれていく。つまるところ、終わりがあるからこそ綺麗だといえる。


 黙ったまま動けずにいると、透は指を離し、何事もなかったような調子で歩き出した。


「……行こう。明日も稽古だからな」

「……ああ。また俺に、あの手を伸ばすくだり教えてくれよ」

「またか? そろそろ覚えてくれよ。というか、自己流にやってみなって」


 濡れた石畳に、俺たちの影が伸びて重なった。その先に続く路地は静かで、風が吹くたび、肌寒さを感じていた。明日の通し稽古、うまく立ち回れるだろうか。まだ覚えきれていない脚本を手に持ち、俺は駅に向かった。

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