第2話 何者 ——湧きあがる記憶の断片
竿にかけられた白い服の陰から、少年が現れた。
「テオ、こいつはユーリ。俺と同じ村から来た――弟みたいなもんだ」
ユーリがテオに警戒の視線を向けた。カイルはそれを気にも留めない。
「こっちはテオだ。どこから来たのかも、自分の名前も思い出せないらしい」
それを聞いた途端、ユーリはわずかに目を見開き、眉を寄せた。
「怪我はないの?」
澄んだ声だった。テオは思わず息を呑み、頷く。
カイルがユーリに医者の居場所を聞いた。今は薬草を摘みに出ているとわかると、彼は兵舎に向かって歩き出した。テオはその後ろに続く。
二人のその様子を、ユーリがじっと見つめていた。
兵舎は調理場と一体になっていた。
二人は、うさぎや鳥が吊るされた調理場を抜ける。
その先の狭い寝所に、数人分の寝床が無理やり押し込められていた。
「俺は昼飯の準備をしに行くから、お前は休んでな。昼飯が出来たら呼びに来る」
テオは首を横に振った。
「平気。僕にも、何か手伝えることはない?」
そう申し出たのは、少しでも、この胸のざらつきを消し去りたかったからだ。
「頭を打ってるかもしれないだろ」
「痛いところはないから、大丈夫だよ」
テオは頑なに譲らなかった。
カイルは、テオの内心の落ち着かなさを察したのか――「そう言うならいいか」と笑みを作り、テオについてくるよう促した。
調理場では、ユーリがすでに火を起こしていた。炉の前にしゃがみ込み、火掻き棒で灰をつついている。
テオはカイルに押し出され、ユーリの隣に立った。
「ユーリ、そっちは任せてもいいか? テオ、お前はそこにある芋を切ってくれ」
テオはぎこちなく、包丁を握った。包丁は、彼の手にまるで馴染まなかった。
芋を左手で押さえ、慎重に刃を下ろす。ぐっと力を込めると、勢いよく切れた芋の半分が、カイルの足元へ転がった。
「硬かったか? 手を切るなよ」
カイルは笑いながら、芋をテオのまな板に戻した。
テオは小さく頷き、もう一度ゆっくりと手を動かし始める。いくつかを切り終えたところで、カイルがまな板の上を覗き込んだ。
「よくできたな」
カイルがテオに笑いかけた。
その、たった一言だった。だがその響きが、別の誰かの声に変わっていく。
誰の声なのか思い出そうとしたとき、冷たい泥のようなものが胸の奥からせり上がり、息が詰まった。
「……テオ?」
テオの異変に気づき、ユーリがそっと背中に手を置いた。
その手の体温に引き戻され、テオはゆっくりと目を開ける。
芋は、厚みも形もまちまちだった。それでもユーリは何も言わず、テオの切った芋を鍋へそっと落とした。
湯が沸く音と、煮え立つスープの匂いが、調理場ごと三人を包み込んだ。
「……こういうの、やったことないのか?」
カイルの問いに、ぼんやりと火を眺めていたテオは顔を上げた。
「……わからない」
「本当に、何も覚えてないの?」
ユーリの声は責めているというより、どこか悲しげだった。
テオは、湧き上がる気泡を追うように鍋の水面を見つめた。揺れる水面の上で、泡は誰かの声のように形を変え、やがて消えていく。
――自分はこの優しさに値する人間だったのだろうか。
ひとつ、泡が弾けた。
その瞬間、テオは気づく。自分は――思い出したくないのだと。
「……何も、思い出せない」
テオの声は震えていた。思い出したくない理由を、二人の優しさがそっと覆い隠していた。
テオの血の気の引いた顔を見て、カイルとユーリは顔を見合わせた。
「そうだよね。無理に聞いてごめんね」
「鍋も煮えたし、昼飯にしよう」
カイルは明るい調子で言いながら、テオの背を軽く叩いた。
狭い食卓には、カイル、ユーリ、テオのほかに二人の青年と一人の少女が並んだ。荒い木目の卓の上には、黒いパンと湯気の立つスープが置かれている。椅子が足りず、テオは兵舎の外に転がっていた木箱に腰を下ろした。
カイルは、テオがこの場にいる経緯を簡潔に話した。三人はそれぞれ驚きや同情の色を見せたが、テオが砦に居候することに異を唱える者はいなかった。
この砦では、カイルが自然と生活の取りまとめ役になっているらしかった。
そのとき、ひとりの青年が口を開いた。
「寝る場所がないな。兵舎はこれ以上入れないだろ?」
「そうだな……。あそこはどうだ? 裏手の物置。屋根もまだ壊れてないし、人ひとり寝るくらいの広さはある」
ユーリがスープを口に運んでいた手を止めた。
「あそこは皆の荷物とか、よくわからないものも置いてあるし、片づけるのが大変じゃないかな」
「お前も手伝ってくれ。三人いれば夜までに片付くだろう」
カイルはちぎったパンを口に入れながら、気楽に言った。
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