第4話 手料理という名の、愛の拷問
残業という嘘をついて、わざと時間を潰してから帰路についた。足取りは、処刑台に向かう囚人のように重い。
マンションのドアの前に立つ。中からは、カレーの匂いが漂ってきていた。昨日までなら、この匂いは俺にとって「幸せの象徴」だったはずだ。家庭的な彼女が待つ、温かい我が家。
だが今は、その匂いすら恐怖のトリガーになっている。俺は深呼吸をして、震える手でドアノブを回した。
「ただいま……」 「おかえりなさーい!」
パタパタとスリッパの音をさせて、彼女が廊下に出迎えてくれた。
桜井美咲。俺の恋人。世界で一番愛している女性。
「遅かったね、拓海くん。お疲れさま!」
彼女は満面の笑みを浮かべていた。だが、俺の視界に映っているのは「天使」ではない。
伸び切ったヨレヨレのTシャツ。腹回りの肉が、ゴム紐のズボンに乗っかっている。 髪は「無造作なお団子ヘア」と言えば聞こえはいいが、単に面倒で適当に縛っただけのボサボサ頭だ。すっぴんの眉毛は薄く、小鼻には脂が浮いている。
チップの補正があれば、この姿も「風呂上がりの無防備なセクシーさ」に変換されていたのだろうか。今の俺には、実家の母ちゃんが寝起きで歩いているようにしか見えない。
「……あ、ああ。ただいま」
俺は目を逸らしながら、靴を脱ぐのが精一杯だった。
「ご飯できてるよ!今日は拓海くんの好きなカレー!」 「……ありがとう」
リビングに通される。テーブルの上には、二つの皿が並べられていた。
そこにあるのは、ドロリとした茶色の液体だった。具材のジャガイモやニンジンは、煮崩れて形を失い、不格好な塊として浮いている。チップの補正がない「現実のカレー」とは、ここまで残飯……いや、泥に近い見た目をしているのか。
「さ、冷めないうちに食べて?」
美咲が向かいの席に座り、ニコニコと俺を見ている。その期待に満ちた目が、痛い。彼女は何も悪くない。一生懸命作ってくれたのだ。俺だって、彼女の料理が大好きだったはずだ。
俺は覚悟を決めて、スプーンを手に取った。視界に入る情報をシャットアウトするために、少し目を伏せる。そして、茶色い塊を口に運んだ。
「…………」
味が、口の中に広がる。スパイスの香りと、野菜の甘み。隠し味に入れたチョコレートのコク。間違いなく、俺の大好きな美咲のカレーだった。
「……うまい」 「ほんと? よかったぁ!」
美咲が手を叩いて喜ぶ。俺は胸が締め付けられる思いだった。
味は美味しいんだ。目さえつぶれば、ここは天国なんだ。でも、目を開けた瞬間、目の前には「だらしない格好の知らない女性」がいて、俺は「泥のようなもの」を食べている現実に引き戻される。
脳が混乱を起こしていた。味覚は「愛しい」と叫び、視覚は「気持ち悪い」と拒絶する。その矛盾が、俺の精神をガリガリと削っていく。
「拓海くん、顔色悪いよ?大丈夫?」
ふいに、美咲の手が伸びてきた。俺の額に触れて、熱を測ろうとしたのだろう。
その瞬間。
「ヒッ……!」
俺の体が、勝手に跳ねた。背筋に冷たいものが走り、反射的に彼女の手を払いのけてしまった。
パチン、と乾いた音がリビングに響く。
「あ……」
美咲の手が、空中で止まる。彼女の目が見開かれ、傷ついたような色が浮かんだ。
やってしまった。一番、やってはいけないことを。
「ご、ごめん! 違うんだ、静電気が……!」 「う、ううん。ごめんね、急に触ったりして」
美咲は気まずそうに手を引っ込め、寂しげに笑った。その笑顔すら、今の俺には引きつった不気味な表情に見えてしまう。
自己嫌悪で、内臓がねじ切れそうだった。俺は彼女の中身を愛しているはずだ。 優しくて、料理上手で、俺を気遣ってくれる彼女を。
なのに、体が拒絶する。見知らぬ、清潔感のない他人が、パーソナルスペースに入ってきたような生理的な不快感。本能が「逃げろ」と警鐘を鳴らしてしまう。
「……ごめん。やっぱ少し、疲れてるみたいだ。先に寝ていいかな」 「そっか……うん、ゆっくり休んでね」
俺は逃げるように寝室へ向かった。背中に突き刺さる、美咲の心配そうな視線を感じながら。
ベッドに倒れ込み、天井を見上げる。涙が滲んだ。
俺はいつまで、この「愛の演技」を続けられるだろうか。手をつなぐことも、キスをすることも、今の俺には「苦行」でしかない。
ふと、昼間に見た西園寺の姿が脳裏をよぎる。偏屈で、性格が悪くて、ササミばかり食べているあの女。でも、彼女の隣にいる時だけは、俺は生理的な嫌悪感から解放されていた。
「……最低だ」
俺は枕に顔を埋めた。暗闇の中で、美咲のカレーの味だけが、口の中に切なく残っていた。
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