アガメルの民(1)
かつて人類は、絶滅の危機に瀕したことがある。度重なる世界規模の天災で経済が崩壊し、資源をめぐる戦争が各地で勃発したために環境が汚染された。そして人口が急激に減少したからである。
だがあるとき、空を覆う厚い暗雲から一筋の光の柱が射し込み、“アガメルの民”と呼ばれる天界の住人──人ならざる上位者たちが地上に降臨した。
アガメルの民は疲弊した大地を癒し、人類の存続のために献身的になって救済を行った。アガメルの民の指導のもと、既存の国家は解体され、世界各地に
現在、人類はアガメルの民の統治によって、各要塞にて安全に暮らしている。
こうして人間たちは、かろうじて文明を存続させることができた。それが、アガメルの民が説く人類の歴史であった。
アガメルの民の教えでは、殺人は禁忌と定められており、どんな理由があっても“堕落”(すなわち堕天使になること)は免れられない重罪だった。
しかし騎士や医術師など、人命と向き合う立場にある人たちは、誤って命を奪ってしまうこともたびたびある。
そういった無実の罪で堕天使になった天使たちのために、この
アガメルの民は常識を覆す神秘の力を宿している。だから本来ならあり得ない、光輪の黒い淀みを取り除くという奇跡をもたらすことが可能なのだ。
白亜の聖堂に続々と騎士団関係者が集い、“浄罪の儀”がまもなくはじまろうとしていた。
となりに座るハリソンが、懐からボトルを取り出してぐいっとあおった。セイレンは、すかさずそれを取り上げた。
「おい、何すんだ!」
ハリソンががなった。
「仕事中に飲酒とはあきれる……。騎士の自覚はないのですか?」
「こっちはやることやってんだ! 文句ねえだろ!」
「そんな怠惰な振る舞いを続けて、よくまだ天使でいられる」
「しらふのままだと手が震えて止まらねぇんだ。手もとが狂っておたくを誤射しても文句言うなよ」
ハリソンと顔を合わせれば、マッチを擦ったみたいに瞬く間に火が着き喧嘩がはじまる。だいたいの原因はハリソンのほうにあり、生真面目なセイレンの性格とは、絶望的に相性が悪い。
「失望しました」
「なんだと?」
「あなたのオフィスで見たんです。過去に数多くの勲章を授章されているそうですね。最年少で聖騎士に昇格し、かつては、もっとも優秀な騎士のひとりだったとか……」
「幻滅したか? なら放っておいてくれ。おれはべつに、大衆からちやほやされたくて騎士をやってるわけじゃないからな」
「それがいまでは、酒に溺れ、自暴自棄となり、規則を破った強引な捜査をしては幾度も懲戒や停職処分を受けている。これでは、あなたは騎士の恥さらしです。辞職をお勧めます」
「青二才が調子に乗りやがって! いい加減、その減らず口を閉じねぇと、騎士道とやらを味わわせてやるぞ、ええっ!?」
短気を起こしてハリソンが怒鳴り散らした。彼の体に染み着いた酒の臭いがむっと寄せてくる。
いつものことだと、セイレンは動じず無視していると、ラナが二人を制止した。
「ふたりとも静かに。ロク様がいらっしゃいました」
潮が引くみたいに、聖堂内からざわめきが消えた。
正面の祭壇の前に立っていたのは、この要塞を統治するアガメルの民、ロク・アガメル様だ。
聖職者らしく清い純白の衣装に身を包み、頭部はベールで隠されていて素顔は見えない。二メートルを優に越す痩せこけた長身と、異様に長い手足が目を引く異形である。
ロク様がそこにいるだけで、場の空気が引き締まる。それも当然のこと、彼女は人間の上位に立つ、いわば神に近しい存在なのだ。
誰もがロク様には逆らえない。逆らおうと思いすらしない。畏敬の念を抱くのは、彼女が絶対的正義の象徴だからである。
「不思議な感覚です。ロク様を見ていると、恐れを感じずにはいられない」
ラナが小声で感嘆を漏らした。普段はどんな悪党どもと対峙しても臆さない彼女が、珍しく緊張している。
「それが威厳というものなのだろう。人類の上に立ち、おれたちを導く立場にあられるお方だ。そう感じるのも無理はない」
セイレンがそう言うと、となりでハリソンが鼻で笑った。
「要するにおれらは家畜ってわけだ。てめえを絶対的な善って主張したがるような奴を、おれは信用できないね」
「不敬ですよ、ハリソン。おれたちは、アガメルの民のおかげで今日まで生きてこられた。それは揺るぎない事実でしょう?」
「へいへい、失敬。神様の言うとおりってな」
“浄罪の儀”は滞りなく進んでいく。堕天使となった騎士の光輪が白く輝きを取り戻すと、その騎士はロク様に深く感謝を述べた。
ロク様は高潔なお方だ。セイレンは彼女を尊敬していた。無償の愛と慈悲をもって人々を救おうとするその姿に感服した。
救うべきを救い、罰するべきを罰する。慈悲と厳格さを兼ね備えているからこそ、彼女は高潔なのだ。
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