第3話 「もやもやの正体――甘えん坊は、席を譲れない」

最近、恵風の“距離”がおかしい。


――いや、正確に言うなら、元に戻っただけのはずなのに。


なのに、胸がざわつく。


「遥斗……」


朝のホームルーム前。

恵風は俺の席の横に立ち、控えめに俺の袖をつまんだ。


「なに?」


「……こっち、来て」


小さな声。

拒否の余地がない。


俺が立ち上がると、恵風はほっとしたように息をついて、俺の腕に自分の腕を絡めてきた。


――絡めて……きた。


「恵風?」


「……昨日、あんまり話せなかったから」


それだけ言って、ぎゅ、と力を込める。


密着。

二の腕に、柔らかい感触がはっきり伝わる。


……近い。

いつもより、確実に。


その瞬間。


「おっはよ~、二人とも」


明るい声とともに、如月が現れた。


「あ」


恵風の肩が、ぴくっと跳ねる。

でも、腕は離れない。


「……おはよう、お姉ちゃん」


声はいつも通り。

でも、俺の腕を掴む指先が、さっきより強い。


如月は一瞬だけその様子を見てから、にっこり笑った。


「ふ~ん。朝から仲良しだね~」


「……いつも通り、だよ」


「そっか。じゃあ、私も“いつも通り”しよっかな」


そう言って、如月は反対側から、俺の腕に触れた。

軽く。指先だけ。


――両側から、挟まれる形になる。


「っ、如月!?」


「なに? 恋人なら、これくらい普通でしょ?」


わざとらしく、でも自然に。

周囲から見れば、完全に“そういう関係”だ。


恵風の動きが、止まった。


「……恋人」


ぽつりと呟く。

その言葉を、口の中で転がすみたいに。


「恵風?」


「……なんでもない」


そう言って、恵風は俺の腕から、ゆっくり離れた。


離れる前、ほんの一瞬だけ――

名残惜しそうに、指先が擦れた。


胸が、きゅっと締め付けられる。



昼休み。


俺が弁当を開くと、恵風が隣に座った。

これは、いつもの光景。


なのに、今日は違う。


「……遥斗」


「ん?」


「これ、あげる」


恵風が差し出してきたのは、ミニトマト。

しかも、フォークに刺して。


「あー……」


無言の圧。


俺が口を開けると、恵風は少しだけ安心した顔で、そっと運んでくる。


唇に触れないギリギリの距離。

でも、吐息がかかるほど近い。


「……美味しい?」


「……うん」


そのやりとりを、斜め前から如月が見ていた。


「へえ。恵風、そんなことするようになったんだ」


「……だめ、なの?」


「ううん? 可愛いなって思って」


如月はそう言いながら、俺の方に身を乗り出した。


「じゃあ私も。遥斗、はい」


今度は、如月が自分の箸で卵焼きを差し出す。


距離は、恵風よりさらに近い。


俺が固まっていると、如月は耳元で囁いた。


「……ほら。揺れてる」


その声は、俺にだけ聞こえる。

策士の声だ。


視線を戻すと、恵風がじっとこちらを見ていた。

フォークを持つ手が、止まっている。


「……遥斗」


「なに?」


「……それ、いや」


小さい。

でも、はっきり。


如月が、ふっと笑った。


「あ、やっぱり?」


「……」


恵風は答えない。

でも、その目は、俺から離れない。



放課後。


如月が用事で先に帰ったあと、俺と恵風は並んで歩いていた。


沈黙が長い。


「……遥斗」


「ん?」


「最近……お姉ちゃんと、仲いいね」


昨日と同じ言葉。

でも、今日は少し違う。


「……私といるの、楽しくない?」


胸が、強く跳ねた。


「そんなことない」


「じゃあ……」


恵風は立ち止まり、俺の袖を掴む。


「じゃあ、いっちゃやだ……」


視線は伏せたまま。

でも、声は震えていた。


「遥斗は……私の……だから」


その一言で、頭が真っ白になる。


――恋じゃない?

本当に?


少なくとも、“当たり前”の感情じゃない。


「恵風……」


「……分かんない。でも……」


恵風は一歩近づき、額が触れそうな距離で囁いた。


「遥斗が、誰かのになるの、やだ」


それは、紛れもなく――独占欲。


如月の言葉が、頭をよぎる。


《遥斗は……耐えられないよ》


その通りだった。


俺は、恵風の頭に、そっと手を置いた。

撫でるほどじゃない。触れるだけ。


「……今日は、俺と帰ろう」


「……うん」


恵風は、小さく笑った。

安心したように、でも、どこか必死に。


まだ、恋とは言えない。

でも――


恵風はもう、自分の“席”を、譲る気がない。

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