第9話 泳いだ

 4月が過ぎ、高校生活に慣れてきた頃。アサガオが顔を出す。


 今年は猛暑で、春の陽気は一瞬で過ぎた。

 学校で、夏。

 プール開きの到来だ。


 先生は、高校初めてのプールだからと、自由時間にしてくれた。

 かわいそうに、男子は校庭で走らされている。


 高校生だから、もちろん指定のスクール水着。どこを見ても、絶景だ。

 セーラー服よりも恥ずかしいけど、楽しみの方が多いから、意気揚々と着替えた。


 自然と吸い寄せられる、視線。

 青い空のもと、まだシミのない若い肌が、きらめいている。

 一生懸命に遊泳する生徒がいれば、日焼けを気にして影を探している子も見かけた。


 私は目立たないように、見つめるだけ。



「恵巳さん」

「うわっ!」



 突然、視界に手が入り込んできた。

 緑の痣。ナギサちゃんの左手だ。



「恵巳さん、隣、いいですか?」

「友達とはもういいの?」

「はい。最近は逆に、恵巳さんのとこに行かないのって、心配してくれます」

「……なんか公認になってる?」

「ふふふ。みんな、自己紹介のこと、覚えているんですよ」



 ナギサちゃんは、クラスメイトとの付き合いを減らしている。

 周囲を突き放していないけど、距離をとっている感じ。

 その分、2人の時間が増えた。



「それよりも、恵巳さん、あたしのこと見てなかったですよね?」

「そ、そんなことはないけど……」

「目が泳いでますよ」



 無意識に、大好きなスクール水着を追いかけていただけだし。

 スクール水着が魅力的なのが、わるい。



「恵巳さん」

「はいっ」



 徐々に、ナギサちゃんの顔が近づく。迫ってくる。

 黒い瞳が視界から入り込んで、私の神経をがんじがらめにして、体を固める。



「恵巳さん、見ていてください」



 消毒シャワーみたいに冷たい声とともに、ナギサちゃんは、プールに飛び込んだ。


 水面越しに見える、ボディライン。

 お風呂で見る姿とは、印象が変わる。 


 クロール。

 息継ぎ。


 水しぶきが、お日様を反射して、ナギサちゃんの体を彩る。

 プールの青さが、肌の美しさを際立てた。

 動きのひとつひとつが、肉体美の別側面を見せ、周囲の生唾なまつばを奪い去っていく。


 そっか。

 この世界は、額縁だ。

 森羅万象は、ナギサちゃんを美しく見せるために、存在してる。


 頭の中で甘美な光景を反芻はんすうしていると、時間を忘れていた。


 まだ水を滴らせているナギサちゃんが、目の前に立っている。



「どうでした?」

「キレイだった。すごく」

「ありがとう、ございます……。もう、他の人は見えませんか?」

「……うん」



 ナギサちゃんで、欲の全部が、満たされちゃった。



「恵巳さんの泳ぎも見てみたいです」

「人間は、泳げるようにできていないの」

「ふふふ。そうですか」



 軽くあしらわれて、負けた気分。

 まあ、ナギサちゃんになら、いくら負けてもいい。


 でも、ちょっとイタズラしたくなった。



「いいの? 私、泳いだら注目されちゃうかもよ?」

「……やっぱり、ダメです」

「そっか」

「はい。ダメです」



 さっきまでは女神のようだった少女が、頬を膨らませながら、私に身を寄せる。


 そっか。

 私、また負けた。かわいすぎる。

 


「残りの時間、プールの端で、泳ぐ練習をしませんか?」

「えー。大変そう」

「あたしが教えたいだけ、なんです」

「好きだよね。教えるの」

「ふたりっきりになれますから。頭の中も」



 教えるのは、難しい。教えられる側も、必死になる。両方とも、他の事を考える余裕はない。

 本当に、ふたりっきりになれる、魔法のひと時。

 

 それから、泳ぎ方を教えてもらった。

 バタ足すらド下手だったけど、ナギサちゃんの教え方が上手だった。

 上達すると、自分のように喜んでくれて、尊い。


 両手を握って支えられていると、照れくさかった。


 甘酸っぱくて、楽しい時間は、ほんの一瞬。


 チャイムが鳴った。

 急いで着替えないと、次の授業に間に合わない。

 クラスメイトたちは、次々と更衣室へ駆け込んでいく。


 私も続こうとした瞬間。手を引かれた。



「ちょっとおかしなお願いなんですけど、聞いてくれますか?」

「なに?」

「手を握っていて、ずっと考えていたんです」



 恥ずかしそうに顔を赤らめる、ナギサちゃんの顔。

 純粋な乙女に見えるのに、ラベルのないペットボトルみたいに危うい。



「あなたの手で、私をプールに沈めてくれませんか?」



 濡れた黒髪が艶やかに光り、先から雫が落ちて、プールサイドの色を変える。


 塩素の香りが漂う空間。

 もう、生徒も教師も残っていない。

 口の中が、プールのしょっぱさに染まっていく。


 食べ物が通ると思えない、なめらかで繊細な首を凝視しながら、私は自分の手をさすった。

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