第9話 優しい視線と華奢な指先

翌日、私はちゃんと出社した。


街はいつも通り穏やかで、湖のさざ波が遠くから聞こえてくるのに、私の心は昨日の朝の余韻で少し浮ついていた。


広告代理店のオフィスに着くと、いつものデスクに座る前に、昨日の朝の電話の相手の上司──


二条光一にじょうこういちさんが声をかけてきた。


「斉木さん、おはよう。昨日は大丈夫だった? 熱、大丈夫?」


爽やかな笑顔に、ドキッとする。


二条さんはいつでもこんな感じ。部下思いで、優しくて、仕事も完璧にこなす。

背も高いし、スーツの着こなしもバッチリ。

しかも独身。

女子社員の憧れの的だったりもする。


そんな上司に、昨日、電話越しに聞かれたんじゃないかと不安になる。


一瞬の、甘い吐息が。


「は、はい、おかげさまで。 ご心配おかけして、すみませんでした」


頭を下げると、彼は小さく首を振って、コーヒーを差し出してくれた。


あ、指が……。


その手の甲は滑らかで、白い指先が、わずかに触れる。


だけど二条さんは気にせず、そよ風のような声で私に微笑んだ。


「いいよいいよ。無理しないでね? でも昨日は本当、連絡なくて焦ったよ。 斉木さんが無断欠勤するとは思えなかったから。 体調悪い時は、遠慮なく言ってよ?」


優しい声に、胸が少し痛む。


無断欠勤の、その理由は……。

罪悪感と、上司への嘘が重くのしかかってくる。


でも、二条さんはそんなこと知らずに、笑顔で私のデスクの横に寄りかかる。


「今日は大事なミーティングあるけど、斉木さんの体調優先で。俺がフォローするから」


そんな言葉に、ホッとする。


彼は本当に、頼れる上司だ。


東京から戻ってきたばかりの頃、仕事に慣れなくて落ち込んでいた時も、優しくアドバイスをくれた。

残業で遅くなった時は、さりげなく声をかけてくれたり。


「ありがとうございます。二条さん」


微笑むと、彼の瞳が優しく細まる。


「じゃあ、今日も一緒に頑張ろう」


爽やかな笑顔に、心が少し軽くなる。


でも、胸の奥で蒼さんの顔が浮かぶ。


昨日の朝の温もり、掠れた声。


この優しさと、あの熱さ。


どっちも、心地いいのに……違う。


ミーティングの準備をしながら、ふとスマホを見る。


蒼さんから、メッセージはまだない。


心配……してるかな。


二条さんの優しさに感謝しつつ、心はSAZANAMIの方へ向かってしまう。


この想い、どうしたらいいんだろう。


「……本当に、大丈夫?」


その声に心から目の前に意識を向けると、そこには二条さんの心配そうな瞳。


「だ、大丈夫です……!」


資料を抱きしめて、私は目をそむけた。

顔が、ちょっと熱い。

だけど二条さんは誰にだって、こんな風に優しい人。それを知っているのに。


「無理、しないでね?」


誰にでも……。

だから女子社員たちに人気がある。

私は、特別じゃない。

分かってる。

分かってるけど。


「そう? じゃあ、ミーティング始めようか」


「……はい」


会議室へと二条さんの後ろを歩き向う。

スーツの袖から見える男の人にしては華奢で、綺麗な指先。

それがさっき触れた部分がじんわりとしてしまうのは、なぜだろう……。

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