第5話:追跡の網

第5話:追跡の網


朝の光が社内に差し込む。窓越しの冷たい冬の光が、田中のデスクの書類を白く照らしていた。紙の匂い、インクの匂い、そして昨日までの焦燥がまだ残る空気に、微かな埃の味が混ざる。


「田中君、これを見ろ」

法務部の鈴木が、分厚いファイルを差し出した。手が触れる紙のざらつきが、彼の緊張をさらに強くする。


「15人……この人物たちが、我々の取引に関与している可能性があります」

鈴木の声は低く、しかし背筋に突き刺さるほどの重みがあった。


田中は息を飲む。数字だけでなく、名前や住所、電話番号が並ぶリストに、現実味と恐怖が入り混じる。紙に触れる指先が震え、ほんのわずかな湿り気が感じられた。


「警察も動き出したようですが……この連中、簡単には捕まりません」

鈴木はページをめくりながら言った。インクの擦れる音が、沈黙の社内で妙に大きく響く。


「なぜですか?」

田中は問い返す。胸の奥がざわつき、焦燥が血管をかけ巡る。


「このグループの巧妙さだ。住所や名義、電話番号まで偽造されていて、連絡網も匿名性が高い。捜査は難航しています」

鈴木の声が、静かに、しかし深く胸に刺さる。田中は、窓の外の街の景色をぼんやりと見つめた。人々が行き交う足音、車のエンジン音、風に揺れる看板の音――すべてが、現実と非現実の境界線を曖昧にする。


「こんなに巧妙だとは……」

田中はため息をつく。息が白く、冷たい空気が肺を刺す。胸の奥の不安が、鋭利な刃のように胸を切り裂く。


その夜、田中は社を出て、ひとり歩く。冷たい風が顔を叩き、コートの中の体温を奪う。通りの街灯の光が、彼の影を長く伸ばす。舗道に落ちる雪が、カリッ、カリッと音を立てる。足元の感触が、決意を確かめるようだ。


「……自力で証拠を集めるしかない」

田中は小さく呟く。声が風に消され、しかし自分の耳には鮮明に響く。手のひらで胸を押さえ、鼓動を確かめる。熱い、冷たい、痛い――感覚が入り混じる。


数日後、田中は警察との情報交換に臨む。署内は低い蛍光灯の光に照らされ、壁の白さが冷たく、空気は消毒液の匂いに満ちている。


「田中君、彼らの手口は非常に巧妙です。偽造書類はプロの技術で、登記も銀行も欺く構造になっています」

刑事の高橋は、デスクに置かれた書類を指差しながら言う。紙の重さ、紙質の違い、印鑑の微細な凹凸。田中の目は細かく動き、五感が異常に研ぎ澄まされる。


「どこから手をつければ……」

田中は俯き、息を整える。耳に聞こえるのは蛍光灯の微かなハム音、筆記具のカリカリという音、窓外の寒風の音。


「まずは、契約書類の原本、金融機関の取引記録、登記の確認……順番に潰していくしかありません」

高橋の言葉は理路整然としているが、現場の混乱を想像すると胃が重くなる。


田中は拳を握る。机に触れる紙のざらつき、ペンの冷たさ、椅子の硬さ――すべてが決意を後押しする感覚になる。


「……僕が見つけます。55億円の行方、そして、真相を」

小さく、しかし力強く呟いた。言葉の端に、恐怖と決意が混ざり合う。体中の神経が一斉に覚醒し、手のひらが熱くなる。


翌日、田中は街を歩きながら情報を探る。カフェの席で、ノートPCを開く。画面の光が目に刺さり、文字の一つ一つが鮮明に浮かび上がる。周囲の雑音――店内のカップのぶつかる音、コーヒーの湯気の匂い、冷房の風の感触――すべてが、彼の集中力をさらに研ぎ澄ます。


「この人、契約時に現場にいたはず……住所はここ……」

指先で画面をなぞりながら、田中は頭の中で地図を描く。心臓の鼓動が早くなる。胸の奥で、過去の振込シーンや、地面師たちの笑顔がフラッシュバックする。


「逃がすわけにはいかない……」

息を吐く。吐く息の白さが、冬の冷たい空気に溶ける。手に力を込め、コーヒーの熱を感じながら、彼は次の行動を考える。


社内に戻ると、上司の佐伯が声をかける。

「田中君……進展はあるか?」

田中は資料を差し出す。紙の手触りが、手の中で確かな重さを持つ。


「少しずつですが……手がかりはあります。彼らの連絡網、偽造書類、金融機関との関わり……一つずつ紐解いていきます」

田中の声は低いが、芯には揺るがぬ決意がある。


佐伯は頷く。「頼むぞ、田中君。会社の信用も、我々の誇りも、君に懸かっている」


夜、田中は再び一人、パソコンの前に座る。キーボードの冷たさ、モニターの青白い光、耳に届くわずかなファンの音――五感すべてが、情報収集に集中している。


「……必ず、真実を。55億円の影の先にあるものを、掴むんだ」


机上の書類、画面の文字、街の喧騒、窓から入る冷気、指先の感覚――すべてが、田中を突き動かす。警察の捜査が迷路のように絡み合い、容疑者たちは巧妙に姿を消す。だが、彼の決意は、深く、静かに燃え続けていた。


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