宥めのブランケット
木闇愛
プロローグ 星空
——ツンツン、こちょこちょ、カサカサ
顔に当たってる。
浅い眠りの中、何かが鼻をくすぐってる。
その何かはあろうことか、顔によじ登ろうとしてきた。
「んー!くすぐったい!あっち行って!シッ!」
一生懸命あたしの顔に足をかけるその子をわし掴み、ぽいっと放り投げた。黒光りする背中の彼は、ものすごい速さで暗闇に消えていった。くすぐったさの残る顔をゴシゴシと擦り、仕方なく目に光を取り込む。
はぁ…やっと眠れたところだったのに......もう朝か……
お日様の光が、扉の隙間から顔を出していた。
寝入る頃には狼たちが走っていた気がする。
てことはあたしが寝入ったのは夜明け頃か......今日もほとんど寝れなかったな。
夕べはかなり冷え込んでいた。
藁をかき集めて身体に掛けたら少しはマシになったけど、手足の先が冷たくて、なかなか眠れなかった。
ここのところ、いつもそう。
夏だっていうのに、夜は嘘みたいに冷え込む。
夜も温かくしてくれたら眠れるのに。
そんなことを思いながら、なんとか身体を起こすと——
「いたたた.....」
下にしていた右半身に血が巡り始め、じんじんと痺れだす。
身体中の関節が軋んでいて、動かすだけなのに勇気が必要だった。
思い切って首と肩をゆっくり回した。
バキバキッポキッ
うわぁ.....
ゾッとする音を聞きながら身体を起こして、小屋の関を外して外へ出た。
ふぅ......
ため息を吐きながら土を踏み、重い足をなんとか運んで裏口の扉に手をかける。
息を呑んで、やっとの思いで扉を引いて中に入った。
急に息がしづらくなった。
家の中には2つの足音。
それまでは、たぶん楽しくおしゃべりをしていたんだろう。
そんな名残が空気に混じっていた。
「おはよう...ございます」
リビングに入って、誰に向かったものかわからない挨拶をした。
そんなあたしに苛立ったのか、お母さんはあたしの頭を叩いた。
「朝から暗い顔見せないで。こっちは晩まで仕事なのよ?まったく......」
「......ごめんなさい」
「フン、もういいわ。ほら、ご飯食べなさい。」
テーブルには何故かあたしの分も並んでいる。
茶色いパンとオレンジ、それから目玉焼き。
今にもお腹が鳴りそうだったし、すぐに手が出そうなくらいだった。
でも、もうひとつの視線があたしに突き刺さっていて、身動きが取れなかった。
「何やってんの!食べなさいって言ってるのわかんないの!?もう!なんで朝からこんなイライラさせんのよ!」
身体にビリビリと響く大声に、ギュッと目を瞑ってしまった。
あたしは我慢できなくなって、この会話を終わらせることにした。
「あ…ごめんなさい……その…お腹…空いてなくて」
「あ、そう。そんなに私たちとご飯食べるの嫌なのね。」
ちがう。もう何日もまともに食べれてない。
本当はご飯が食べたい。お母さんと一緒におしゃべりしながら。
「それならもうここに居なくていいわ。森にでもどこにでも行って勝手に生きていきなさい」
居なくていい?勝手に生きて?
意味が理解できなかった。
あたしは、その前のお母さんの言葉を訂正しようと頭を巡らせた。
ちがいます、お母さんとご飯食べるのは嫌なんじゃないです。
なにか言わなきゃ、と言葉が浮かんだ時にはもう遅かった。
腕を強く引っ張られて、抵抗する間もなく外へ突き飛ばされていた。
「出て行けだってよ。ほら、さっさと行け。これでなんとかっていう友達とも会えなくなるな。ハハハ、ざまあみろ」
みっともなく手をついて動けなくなっているあたしの横に、サンダルも投げ出されてきた。
そうか。嬉しいんだ。
あたしが居ないほうが、みんな笑っていられる。
お母さんが、笑っていられるんだ。
無惨に転がるサンダルを見て浮かんだ考えは、涙を出す力すらも奪っていった。
あたしは冷たい地面を裸足のまま踏み、静かに家を離れた。
これで、お母さんが笑ってくれますように、と願いながら。
———
家を出てから、どれほど歩いたのかわからない。
辺りはすっかり暗くなり、梢の中を動き回る小さな獣たちがこちらを見ているのを感じる。
前はこんなに暗いところ、怖くて歩けなかった。
闇はいつもあたしの身体を縮こまらせる。
それなのに、今あたしの身体は、闇を前にしても全く反応しなくなっていた。
胸に大きな穴が空いているようで、寂しさも、怖さも、何も感じない。
ただただ、足を運んだ。
足元も照らさないほどの月明かりを頼りに、暗い闇の中を夢中で進んだ。
風に紛れて波の音が聞こえてきた。
あたしはその音を聞いた時、自分が歩いてきた距離の長さにようやく気づく。
波の音が聞こえる方へ歩いていくと、見覚えのある砂浜にたどり着いた。
あっ、ここ覚えてる。昔お父さんと来たことがある。
小さい頃狼のおじさんたちの背中に乗せてもらって、今何時間も歩いてきたこの道を、ほんの数十分で駆けてきた。
あの時は農園に住む大勢の獣たちと……レッドもいたっけ。
海に入ってみんなで遊んでたな。
でも、あたしは怖くて海には入らなかったんだよね。
お父さんに抱いてもらって、やっと水に足をつけて。
だけど足元が気になって、抱っこをせがんで。
懐かしいなぁ。
記憶の奥底に眠っていた景色を懐かしみ、あたしはふと空を見上げた。
そこにはいつも何気なく見ていた星が、より一層数を増やしていた。
ちいさな輝きが空を埋めていて、あたしの心にほんの少しの温かみを注いだ。
わぁ……すごい星の数。夜の空ってこんなだったっけ。
こんなに綺麗だったなんて、今まで気がつかなかったな。
あたしは星空に導かれるように浜辺を歩き、サラサラとした砂を踏み進む。
いつの間にか、波が足元まで届いていた。
足首に当たる冷たさを感じ、しばらく立ちすくんだ。
波の音と星の光が、あたしの心をうずうずと刺激する。
それでも胸の重たさは変わらない。
空の温かい光を見ていても、瞼を開き切ることはできなかった。
そうして立ちすくんでいると——潮風があたしの手を引いた。
波の音に混じって、誰かが呼んでいる気がする。
———おいで。話をしよう。
あたしは声なのか風なのかわからない音に誘われるまま、サンダルも服も脱がずに、夜の海の中へ入っていった。
スカートが水面に浮かび上がるのを見つめながら、胸が浸かるほどの深さまで歩いた。
水の冷たさが呼吸を震わせる。
当然、温かい場所はどこにもない。
でも、全然怖くない。
今なら、どこへだって行ける。
この世界には、もうあたしの居場所はないんだ。
そうしてあたしは、チャプチャプと鳴る波に手を引かれながら、夜の海を奥へ奥へと進んでいった。
———
この日の星空は今でも忘れない。
胸に穴が空いたまま見上げた星空は、わたしの心にしおりを挟んでくれた。
いつでも、わたしの役割を思い出せるようにと。
安心して。わたしの物語はハッピーエンドだよ。
あっエンドはまだだった。
でも、それはいつか、わたしの代わりに誰かが語ってくれるよね。
それから、この物語はわたしの傷跡を辿る話じゃないよ。
わたしの傷跡はただの序章。
これは、大切な友達や仲間たちと乗り越えた、痛みと憎しみに名前を与える話。
そして、世界を救った"彼"をわたしが---までの物語。
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