第14話 凱旋と熱狂、怪物の顔見せ

その瞬間、世界から音が消えた――ように感じた。


映画『鉄と血の鎮魂歌』の完成披露試写会。  

エンドロールが流れ終わり、スクリーンが暗転し、場内の照明がゆっくりと戻ってきた直後のことだ。  

会場を埋め尽くす数百人の観客たち――その全てが、女性の映画評論家、メディア関係者、そして業界の重鎮たちだ――は、まるで魂を抜かれたかのように、呆然とスクリーンを見つめていた。


無理もない。  

彼女たちは今まで、「男性」という生き物を、「愛らしく、守られるべき、か弱い存在」としてしか認識していなかったのだ。  

だが、今しがた彼女たちが目撃したのは、その常識を根底から覆す「怪物」だった。

汗と泥にまみれ、血を流し、低い声で唸り、暴力を振るう。  

残酷で、野蛮で、救いようのない悪党。  

だというのに、どうしようもなく美しく、強烈なオスとしての引力を放つ存在。


誰かが、震える手で拍手をした。  

乾いた音が、静寂を破る。  

それを合図に、堰を切ったように感情が爆発した。


ドッッッ!!!!!


地鳴りだ。  

拍手ではない。

それは轟音だった。  

観客全員が総立ちになり、手を叩いていた。  

上品なドレスを着た評論家が、顔をくしゃくしゃにして涙を流している。  

冷静沈着で知られる大物記者が、興奮で眼鏡を曇らせながら、

何事かを叫んでいる。


「ブラボー!!」

「アンコール! 上映を止めないで!」

「あの男は誰!? あの生き物は実在するの!?」


それは恐怖ではない。  

未知の刺激を与えられたことによる、捕食者としての、あるいは求愛者としての、本能的な熱狂だった。


舞台袖でその光景を見ていた俺――阿久津丈は、ネクタイの結び目を指で少し緩めた。


「……やれやれ。随分と気が立ってやがる」


俺の格好は、映画の中と同じく、黒のダブルスーツだ。  

髪はオールバックに固め、足元は革靴。  

直前の楽屋で、メイク担当の女性スタッフが「せめてチークを入れて可愛くしましょう!」「唇にピンクのグロスを!」と迫ってきたのを、「七五三じゃねぇんだぞ」と一喝して追い返した結果、俺はほぼノーメイクの強面そのままでここに立っていた。


「行くわよ、ジョー」


隣に立つ九条響が、紅潮した顔で俺を見上げた。  

彼女の手は震えていたが、その瞳は勝利の確信に輝いていた。


「世界に見せつけてやりなさい。私の最高傑作を」

「……へいへい。人身御供の間違いだろ」


俺は苦笑しつつ、大きく息を吐いた。


「皆様、お待たせいたしました! キャストの登壇です!」


司会者の声が裏返るほどのテンションで響く。  

割れんばかりの歓声の中、まずは響と、主演の天王寺カレンがステージへと歩み出た。  

フラッシュの嵐が焚かれる。  

カレンは純白のドレスに身を包み、女神のような微笑みで手を振った。

その美しさは完璧だが、今日の観客たちの飢えた視線は、彼女の背後にある「影」を探していた。


「そして……!」


司会者が一呼吸置く。  

会場の空気が張り詰める。


「映画史を塗り替える、最凶のヴィラン! 阿久津丈さんの登場です!!」


俺は一歩、ステージへと踏み出した。


ズシッ。  

192センチの巨体が、ステージの床を踏みしめる。  

眩いスポットライトが俺の視界を白く染めた。  

その瞬間。


「「「「「キャアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!!」」」」」


鼓膜が破れるかと思った。  

黄色い声援、という生易しいものではない。  

数千の鳥が一斉に鳴いたような、高周波の絶叫。  

会場の空気が物理的に振動した。


「ジョー様ぁぁぁ!!」

「こっち向いてぇぇぇ!!」

「〇してぇぇ! 私も〇してぇぇ!!」


……最後のは聞き捨てならないが、とにかく歓迎はされているらしい。  

俺は眩しさに目を細めながら、ステージの中央へと進んだ。  

俺の図体ではどこに立っても邪魔になる。  

俺はカレンと響の間に、仁王立ちする形で止まった。


視界が開ける。  

客席の最前列にいる記者たちは、カメラを構えるのも忘れ、口を半開きにして俺を見上げていた。  

無理もない。

この世界には「男性芸能人」というカテゴリが存在しないのだ。  

彼女たちの目の前にいるのは、珍獣か、あるいは宇宙人だ。


司会者が、震える手でマイクを俺に差し出した。


「ど、どうぞ、ご挨拶を……」

「……あー」


俺はマイクを受け取り、軽くテストした。  

スピーカーから低いノイズが響く。  

それだけで、客席の数人が「ひぅっ」と声を上げて崩れ落ちたのが見えた。  

……おいおい、大丈夫か。


俺は会場を見渡し、腹から声を出した。


「……阿久津丈だ」


ズゥゥン……。  

重低音の響きが、ホール全体を包み込んだ。  

女性の高い声に慣れた彼女たちの耳にとって、俺の声は、内臓を直接揺さぶる振動として伝わったようだ。  

会場全体が、ゾクッという音を立てて身震いしたのが分かった。


「……不慣れなもので、至らぬ点もあったと思うが。……ま、楽しんでもらえたなら何よりだ」


俺は短くそう言い、軽く頭を下げた。  

愛想笑いの一つもない。

アイドル的な「愛しています」の一言もない。  

ただの、ぶっきらぼうな男の挨拶。  

だが、それが逆に彼女たちの琴線に触れたらしい。


「……素敵……」

「媚びない……彼、媚びてないわ……!」

「あの目……私をゴミを見るような目で見ているわ……最高……」


客席から漏れ聞こえる感想が、いちいち不穏だ。  

どうやら俺は、知らない間にこの世界の性癖を歪めてしまったらしい。


そのまま、質疑応答の時間へと移った。  

普段なら、辛辣な質問が飛ぶことで有名な記者会見だが、今日は様子が違った。  

挙手をする記者たちの目が、獲物を狙う雌豹のようにギラギラしているのだ。


「はい、そこの眼鏡の方」


司会者に指名された女性記者が、紅潮した顔で立ち上がった。


「週刊『エンパイア』の加藤です! あの、ジョーさんに質問です!」

「おう、なんだ」

「その……筋肉は本物ですか!? CG処理ではないのですか!?」

「……触ってみるか?」


俺が冗談で言うと、記者は「へっ!?」と変な声を出し、鼻血を吹いて卒倒した。

会場がどよめく。

救護班が走る。  

……これ、収拾つくのか?


次に指名されたのは、もう少し落ち着いた雰囲気のベテラン記者だった。  

彼女は鋭い視線を、俺の隣にいるカレンに向けた。


「主演の天王寺さんに質問です。……劇中、阿久津さんとの格闘戦は非常に情熱的でしたが、撮影中の彼との関係はどのようなものだったのでしょうか?」


会場が静まり返る。  

ゴシップ誌が好む、「色恋」の質問だ。  

男性が希少なこの世界において、一人の男性を誰が所有しているかというのは、最大の関心事らしい。  

普通なら「良き共演者です」と交わすところだが……。


ガシッ。  

カレンが動いた。  

彼女は自分のマイクを握りしめたまま、俺の右腕に抱きついたのだ。  

豊満な胸の感触が、二の腕に押し当てられる。


「ええ、最高でしたわ」


カレンはカメラに向かって、艶然と微笑んだ。


「彼は映画の中だけじゃなく、私生活でも最高のパートナーなんです。……ね、ジョー?」


会場がどよめいた。  

「私生活でも」「パートナー」。  

それは実質的な交際宣言であり、所有権の主張だ。  

フラッシュの明滅が倍速になる。


「ちょ、ちょっとカレン!」


黙っていないのが、もう一人の猛獣だ。  

九条響が、俺の左腕にしがみついた。


「抜け駆けしないでよ! 誤解しないでください、彼は私の『作品』です!」

「あら、作品なら監督の手を離れたはずよ?」

「いいえ! 私は彼を街で見つけた第一発見者よ! 彼の才能も、肉体も、すべて私が把握しているの!」


響は俺の肩に顔を埋め、記者たちに向かって威嚇した。


「次回作も、その次も、彼はずっと私のものなんだから! 誰にも渡さないわ!」


ステージの上で繰り広げられる、公衆の面前での修羅場。  

いや、所有権争い。  

大男が、二人の美女に左右から挟まれ、取り合いされている。  

普通なら情けない構図に見えるかもしれない。  

だが、今の俺の姿は、そうではなかった。


俺は動じることなく、ただ溜息をついて、腕の中の二匹の猫を見下ろした。


「……おい、カメラの前だぞ。みっともねぇ真似すんな」

「だって!」 「ジョーが魅力的すぎるのが悪いのよ!」


二人は抗議しながらも、俺の体から離れようとしない。  

その光景を見た記者たちは、一瞬呆気にとられた後、さらに熱狂した。


「見た!? あの二人を手懐けているわ!」

「王様よ……彼は王様だわ……!」

「キャアアアアッ! その間に挟んでぇぇぇ!」


もはや質問コーナーは崩壊していた。  

最後に行われたフォトセッションは、混沌を極めた。  

カメラマンからの要望は「もっと密着してください!」「ジョーさん、二人を従える感じで!」「不敵に笑って!」といったものばかり。  

俺は言われるがまま、腕を組み、二人の美女を侍らせてレンズを見据えた。


バシャバシャバシャッ!!  

視界が真っ白になるほどのフラッシュ。  

その光の中で、俺は予感していた。  

明日、この世界は変わる。  

「可愛い」男性の時代が終わり、「強く、逞しい」男性が崇拝される時代の幕開けだ。


俺は眩い光の向こう側にある未来を睨みつけ、ニヤリと――映画のラストシーンのように、不敵に笑って見せた。

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