第11話 批評家の冷笑と、銀幕の革命(主人公外視点)
「映画とは、美しさの結晶でなければならない」
それが、映画評論家である私――桂木雫(かつらぎ しずく)の、揺るぎない信条だ。
帝都映画祭の審査委員長を歴任し、数多の名作をこの目で鑑定してきた。
この世界の映画界において、私のペン先一つで作品の価値が決まると言っても過言ではない。
そんな私のもとに、九条響監督の新作『鉄と血の鎮魂歌』の完成披露試写会の招待状が届いた時、私は眉をひそめたものだ。
噂は聞いている。
なんでも、今回の悪役に、無名の新人俳優、それも「男性」を起用したという。
「……正気とは思えないわね」
上映ホールへ向かうレッドカーペットの上で、私は小さく溜息をついた。
会場には、映画界の重鎮や大物女優たちが顔を揃えていた。
皆、口元には上品な笑みを浮かべているが、その目は私と同じ色をしていた。
「見せてもらおうか、天才・九条響の迷走を」という、冷ややかな好奇心だ。
ブーッ。
ブザーが鳴り、場内が暗転する。
私は手元のメモ帳を開き、批判すべき点を書き留める準備をした。
――そして、映画が始まった。
***
ファーストシーン。
スクリーンに映し出されたのは、ゴミと錆にまみれた廃工場だった。
あまりに汚い。
計算された「退廃美」ではなく、本物の汚れ。
生理的な嫌悪感を催すようなリアリティ。
私が不快感に顔をしかめた、その時。
ズゥゥゥゥン……。
劇場のスピーカーが、かつてない重低音で震えた。
『……邪魔だ』
闇の中から響いた声。
それは、女性の声帯からは絶対に出せない、地を這うような低い周波数。
背筋に冷たいものが走る。
スクリーンに、一人の男の姿が浮かび上がった。
巨躯。
鋼のような筋肉の鎧。
そして、獲物を屠る猛獣の目。
「……っ」
私は息を呑んだ。
なんだ、あの生き物は。
あれは本当に、私たちが知っている「男性」なのか?
『あのデカを、ハジいてこい』
彼が吐き捨てた言葉。
「ハジく」。
意味は分からない。
だが、その語感に含まれた暴力的な響きが、私の本能に警鐘を鳴らした。
怖い。
スクリーン越しなのに、殺される。
私の隣に座っていた大女優――普段は「氷の微笑」と呼ばれるクールな女性――が、自身の肩を抱いて小さく震えているのが気配で分かった。
そして、アクションシーンが始まった瞬間、私の常識は粉々に砕け散った。
ドガッ! バキッ!
舞踏のような優雅さは、そこにはなかった。
あるのは、骨が軋み、肉が潰れる音。
ワイヤーで優雅に飛ぶのではなく、重力に従って無様に叩きつけられるスタントマンたち。
男――阿久津丈(あくつ じょう)演じるマフィアの首領は、一切の無駄な動きなく、迫りくる敵を「処理」していく。
「あ……」
私の口から、声にならない吐息が漏れた。
野蛮だ。下品だ。汚らわしい。
――なのに、どうしてこんなにも、目が離せないの?
彼の暴力は、残酷なまでに美しいのだ。
これまでの映画にあった装飾的な美しさではない。
研ぎ澄まされた刃物のような、機能美と野生。
汗と泥にまみれた男の肉体が躍動するたびに、私の心臓が高鳴る。
これは恐怖? それとも……?
私は周囲を見渡した。
異様な光景だった。
普段は辛口で知られる評論家たちが、身を乗り出し、食い入るようにスクリーンを見つめている。
ある者はハンカチを口に当てて絶句し、ある者は恍惚とした表情で頬を紅潮させている。
会場全体が、阿久津丈という「毒」に侵され、熱病に浮かされていた。
***
そして、物語はクライマックスへ。
夕陽の屋上での死闘。
主演の天王寺カレンと、阿久津丈の肉弾戦。
泥だらけになりながら取っ組み合う二人の姿に、私はペンを落としたことすら気づかなかった。
美しいドレスも、綺麗な台詞もない。
ただ、互いの魂をぶつけ合う音だけが響く。
銃声。
隠し持ったナイフごと撃たれた男が、ゆっくりと崩れ落ちる。
美しい愛の言葉も、改心の涙もない。
彼は血を吐きながら、ニヤリと笑った。
最期の瞬間まで、その瞳から「悪」の光は消えていない。
『……へっ』
映画館の全観客が、固唾を呑む音が聞こえた。
『……地獄で、待ってるぜ』
ドクンッ!!
私の心臓が、早鐘を打った。
地獄。
なんて救いのない、それでいて、なんて甘美な響き。
彼は死んでもなお、私たちを支配しようとしている。
その圧倒的な「オス」の矜持に、私は完全に屈服していた。
男が絶命し、夕陽の中に静寂が訪れる。
エンドロールが流れ始めた。
普通なら、ここで儀礼的な拍手が起こるはずだ。
だが、会場は死んだように静まり返っていた。
誰も動けないのだ。
あまりの衝撃に、魂を抜かれたように呆然としている。
余韻が、重く、深く、私たちの胸に突き刺さったまま抜けない。
真っ暗な画面に『監督 九条響』の文字が消え、場内の明かりがついた。
数秒の沈黙。
誰かが、震える手で拍手をした。
パチ、パチ、パチ……。
それは瞬く間に伝播し、燎原の火のごとく広がった。
ドッ!!
地鳴りのような拍手喝采。
私は無意識のうちに立ち上がっていた。
スタンディングオベーション。
私の隣の大女優も、後ろの頑固な評論家も、全員が立ち上がり、空っぽのスクリーンに向かって惜しみない拍手を送っている。
涙を流している者さえいた。
「ブラボー!!」
「最高だ!!」
「すごい……なんて映画なの……!」
役者の登壇はない。
そこに阿久津丈はいない。
だが、観客は確かにそこにいた「悪のカリスマ」の幻影に対し、熱狂的な喝采を送り続けていた。
私は震える手で、落としたペンを拾い上げた。
批判など書けるわけがない。
私が書くべきは、敗北宣言と、新たな時代の幕開けだ。
(……特異点だわ)
私は確信した。
明日から、映画界は一変する。
「美しさ」の定義は書き換えられ、世界中の女性たちが、この野蛮で粗野な「悪役」の虜になるだろう。
アクション映画の歴史は「阿久津丈以前」と「以後」に分けられることになる。
私は熱い拍手を送りながら、まだ熱を帯びているスクリーンを見つめた。
悔しいけれど、認めざるを得ない。
私の批評家人生で、最もスリリングで、最も危険な恋をしてしまった、と。
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