第52話 通知を切った夜、星がうるさい
年末の空気は、やけに軽い。街全体が「もう少しで区切り」と言い張っていて、こっちはただ疲れているだけなのに、勝手に気持ちを整えさせられる。
帰宅して靴を脱いだ瞬間、足の裏がじんわり痛んだ。廊下の灯りは昼白色で、現実だけが明るい。郵便受けにはチラシと、管理組合のお知らせが一枚。「年末年始のゴミ出し」みたいな、毎年同じなのに毎年読み直すやつ。私はそれを冷蔵庫に貼り、スマホをポケットから取り出した。
通知が、三つ。仕事のチャット、友だちのグループ、通販の「本日限定」。全部、今じゃなくていい。でも、今じゃなくていいものほど、今の顔をしてくる。
親指が画面に触れたところで、止まった。指先が乾いている。冬のせいなのか、私の疲れのせいなのか、わからない。どっちでもいいのに、こういう小さな理由探しに時間を使うのが、ここ最近の癖だった。
「通知、切ってみる?」
自分に言った声が、思ったより小さかった。試してみる、じゃなくて、切ってみる。切る。そこに、刃物みたいな響きがある。切ったら、何かが切れる気がする。関係とか、信用とか、私の社会性とか。
それでも、設定を開いた。画面の中のスイッチは、簡単に動く。簡単すぎて怖い。私は指をいったん離して、深呼吸した。部屋の空気は暖房で乾いていて、鼻の奥が少し痛い。
通知をオフにした瞬間、スマホが「無音」になった。正確には、もともと音は鳴っていないのに、なにかが静かになった。胸の奥の、小さいエンジンみたいなものが、止まった気がした。
怖さが、すぐ来た。
何か大事な連絡があったら? 母からとか。事故とか。急な仕事とか。ありもしない不幸の可能性が、通知オフの隙間からぞろぞろ出てくる。私はそれを追い払う代わりに、鍵と財布だけ持って、外に出た。
夜の散歩は、逃げ道としてちょうどいい。目的地がないと、言い訳がいらない。
マンションのエントランスを抜けると、冷気が顔にぶつかった。冬の空気は匂いが少ないと思っていたけど、こういう夜は違う。遠くの飲食店の排気、濡れたアスファルト、誰かの洗剤、そして、ただの冷たさ。匂いがないんじゃなくて、匂いが細い。
歩道を歩きながら、私は何度もポケットに手を入れた。ない。ある。ない。ある。スマホはあるのに、反応がない。それが落ち着かない。犬の散歩をしている人のリードが光って見えた。車が通り過ぎる音が、冬の路面に滑る。遠くで自転車のベルが一度だけ鳴って、乾いた音が空に吸われていった。
いつもの私なら、そのベルの音のあとに「ピコン」と来るはずのものが、来ない。
来ない、ということが、怖い。
コンビニの前まで来て、私は立ち止まった。ガラス越しに見える店内は明るくて、そこだけ季節が違う。温かい肉まんの湯気が、レジ前でゆっくり立っている。私は何か買おうとして、財布を開いたが、結局何も買わずに閉じた。目的のない買い物は、疲れた日に私を甘やかす。でも今日は、甘やかし方を変えたかった。
また歩き出す。足音が自分のものとして聞こえるのが久しぶりだった。普段は音楽か通知の振動が、足音を薄くする。今は、靴底と地面の接触がちゃんとある。
公園の横を通ると、樹の影が濃かった。葉のない枝が黒い線になって、空に刺さっている。私はその空を見上げた。
星が、やけに多い。
都心じゃない。だけど、郊外の住宅地で、こんなに見えるんだ、と驚く。星は静かなはずなのに、うるさい。目に入りすぎる。数が多すぎて、視線の置き場所がない。
私は笑いそうになった。うるさいって、星に対して失礼だ。でも、ほんとうにうるさい。街灯の白い光と、星の小さい光が、競争している。負けてない。むしろ星のほうが粘る。目を細めても、減らない。
そのとき、ポケットの中でスマホが震えた気がした。
反射で取り出しかけて、止まった。震えたのは、たぶん私の指だ。もしくは、ただの錯覚。通知オフの世界では、私の体が勝手に「来た」を作り出す。面白い。怖い。面白い。
私はスマホを取り出さずに、そのまま歩いた。心臓が一回、強く打ったあと、落ち着いていく。何も起きない。起きていない。世界が、私の確認を求めていない。
「……何も起きないんだな」
声に出すと、冷気で言葉が白くなる。白い息が、星に届く前に消える。星は、届かないものの代表みたいな顔で、相変わらずうるさい。
スマホを見ない数分の間に、私はいくつも気づいた。信号待ちの時間がちゃんと長いこと。風が耳の裏を冷やすこと。歩道の端の土が凍って硬いこと。空が、こんなに広いこと。
通知に追われているとき、私はたぶん、空を狭くしていた。自分の手の中だけに世界を収めたかった。収めきれないから、もっと見ようとする。もっと見ようとするほど、疲れる。そういう循環の中に、いつの間にか住んでいた。
角を曲がると、マンションの灯りが見えた。帰る場所があることは、今日も変わらない。通知があってもなくても、廊下は明るいし、ゴミ出しのルールは貼られている。冬は冷たいし、星はうるさい。
エントランスで、私はもう一度ポケットに手を入れた。スマホの角が、指に当たる。冷たくない。体温で少し温まっている。私はそのまま、スマホをバッグの奥に入れた。簡単に取り出せない場所。守るための距離。
部屋に戻っても、通知は見なかった。靴下を脱いで、手を洗って、コップに水を注いだ。水の音が、しっかり鳴った。いつもより長く聞いた。
寝る前に、カーテンの隙間から空を見た。星は、まだうるさい。騒がしくはない。ただ、存在感が強い。私の静けさの中に、勝手に入ってくる。
それが、ちょっと嬉しい。
通知を切るのは、逃げじゃない。守るために切る。今日の私はそれを、体で覚えた。明日もたぶん、怖い。でも怖いままでも、スイッチは切れる。世界は、私の確認がなくても続く。
星は相変わらず、うるさいまま。
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