第44話 忘年会の“行かない”宣言
誘いの通知は、仕事より速い。
午後三時、資料の赤字を直しているときに限って、スマホが震えた。机の端で小さく踊るみたいに。画面には社内チャットのグループ名。「営業二課・忘年会」。
――『亮くんも来れるよね? 席確保しとく!』
文末の「!」が、乾いた雪みたいに刺さる。軽いはずなのに、逃げ道がない。私はスマホを裏返して置いた。裏返しても、振動は伝わる。通知って、握りしめなくても手の中に残る。
起。誘いが重い。
忘年会が嫌いなわけじゃない。嫌いじゃない、だけで好きでもない。中間の人間は、年末に一番困る。好きなら行く、嫌いなら断る。その二択の間で、私はいつも靴ひもを結び直すみたいに時間を使う。
今年は、とくに体力がない。外回りで風邪をもらいかけて、治りきらない喉がまだざらざらしている。帰宅しても、湯船に沈む前にソファで落ちる。落ちるたびに、スマホが顔の横で光る。
パソコンの画面に戻ろうとして、私は無意識に返信欄を開いていた。
『行けます!』
打ちかけて、消した。指が自動で「元気な人」を演じに行く。演じると、その場は丸くなる。でも、帰り道の自分が角張る。角張るのが、もう嫌だった。
会議室から出てきた先輩が言った。
「亮、忘年会、楽しみにしてるぞ。飲もうな」
言い切る。言い切る人は強い。強い人の前で、弱いことを言うのは、負けみたいに感じる。感じるだけなのに。
「……はい」
私は笑って頷いた。頷きは、返事のふりができる。ふりをしている間に、時間だけが決まっていく。
承。角が立つ恐怖で、すれ違いが膨らむ。
幹事は総務の藤原さんだ。いつもメモが早くて、席順をパズルみたいに解く人。藤原さんのチャットは、いつも丁寧で、丁寧すぎて断りづらい。
――『出欠、今週中にお願いします!お店の都合があるので…🙏』
🙏の絵文字が、頼みというより祈りに見える。祈られると断りづらい。祈りって、勝手に重い。
私は椅子の背にもたれて、背中を伸ばした。コートの下のシャツが、乾燥で静電気を起こして腕に貼りつく。冬は、物理的に距離が近い。布も、人も、予定も。
「行きたくない」と言えばいい。言えばいいのに、頭の中で別の台詞が勝手に育つ。
――付き合い悪いと思われる。
――評価に響く。
――誘ってくれた人の顔を潰す。
全部、想像だ。想像は便利だ。まだ起きてない痛みを先に味わえる。味わえるのに、得しない。
夕方、藤原さんが席を立ったタイミングで、私は給湯室に逃げた。逃げた先で、インスタントのココアの袋を破ろうとして、破れない。袋の端を何度もつまみ直す。爪が弱くなってる。こういう小さな不便が、その日の体力を教える。
背後で給湯室のドアが開いた。藤原さんだった。タイミングが、年末。
「亮くん、ココア?」
「……あ、はい」
藤原さんは笑って、紙コップを二つ取り出した。笑う人の手元は早い。私は袋を握ったまま、さっきの破れなさを隠すみたいに拳を閉じた。
「忘年会、さ。もし難しかったら、全然いいからね」
唐突に言われて、私は少し固まった。全然いい、が本当かどうかを測りたくて、藤原さんの目を見る。でも、目は普通だった。普通の温度。
「……え」
「うち、出席率で人を評価する会社じゃないでしょ。たぶん」
最後の「たぶん」で、藤原さんは軽く笑った。冗談の形で言うと、真面目な話が入ってくる。私はココアの袋をようやく破れた。粉が一瞬舞って、甘い匂いが立つ。冬の救いは、甘さが速い。
「正直、今年……行かないって言うの、怖くて」
言ってしまった。言った瞬間、心の中の警報が鳴る。弱音=迷惑。だけど、藤原さんは迷惑そうじゃなかった。むしろ、少しだけ肩の力が抜けた顔をした。
「わかる。幹事としてはね、人数が決まらないのが怖いの。角が立つのも怖いし」
転。幹事の配慮で救われる。
藤原さんは紙コップを私に渡しながら言った。
「だから、今年から“行かない宣言”をしやすい書き方に変えたの。見た?」
私は首を振った。見たけど、そこまで読んでない。通知は、読む前に心を動かす。
「グループにね、“不参加の人も、ひとことだけでOK”って書いた。あと、二次会の誘いはしない。一次会だけで解散。そうすると、不参加の罪悪感も減るかなって」
罪悪感。言語化されると、急にそれが自分だけの欠陥じゃなくなる。仕組みの問題になる。仕組みにできると、手が打てる。
「藤原さん、すごいですね」
「すごくない。去年、私が潰れかけたから」
藤原さんは言い切らずに、ココアを一口飲んだ。湯気が眼鏡を曇らせる。曇ったままでも、会話は続く。視界が完璧じゃなくても、世界は回る。
私は紙コップを持ったまま、スマホを取り出した。手が少し震えた。冬のせいにできる震え。
チャットの返信欄に、短く打つ。
『今年は体調と予定の都合で不参加にします。皆さん楽しんでください。』
送信。送信の音は鳴らない。でも、心の中で小さく「カチッ」とした。スイッチが切り替わる音みたいな。
数秒後、藤原さんが反応を返してくれた。
藤原:『了解!お大事にね。仕事納めまで無理しないで🙆』
🙆の丸が、私の胸の中にもできた気がした。角が立たない。立つと思い込んでいただけだった。
結。参加/不参加の両立文化へ。
その日の終業間際、先輩がまた言った。
「亮、忘年会、来れる?」
私は椅子から立ち上がって、軽く頭を下げた。言い切るのは怖い。でも、短く言うなら言える。
「今年は行かないです。すみません。体調、整えます」
先輩は一瞬だけ眉を動かした。冬の乾いた空気みたいな間。私はその間に、指先でデスクの角を触った。冷たい。現実の冷たさは、想像の熱を少し冷ます。
「そっか。無理すんなよ」
それだけだった。世界は、案外、こちらを追い詰めない。追い詰めていたのは、自分の中の“こうあるべき”だった。
帰り道、駅前の居酒屋から乾杯の声が漏れてきた。「かんぱーい!」とガラス越しに跳ねて、すぐに冬の空気に吸われていく。私はその音を遠くに聞きながら、コンビニで生姜湯を買った。レジの「ありがとうございました」が、いつもよりゆっくり聞こえた気がする。
電車の窓に映る自分の顔は、朝より少しだけ柔らかい。スマホはポケットの中で静かだ。静かでも、世界は進む。誰かが乾杯していても、私は私の速度で帰れる。
ホームの風が冷たくて、私はマフラーを巻き直した。巻き直す動きは、誰にも迷惑をかけない調整だ。行かない宣言も、きっと同じ種類の調整なんだと、湯気の立つ生姜の甘さで思えた。
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