第36話 クリーニング札の取り違え
秋の夕暮れは、商店街を少しだけ映画みたいにする。
八百屋の前の段ボールがオレンジ色に光って、焼き鳥の煙が細く伸びて、コロッケ屋の油の匂いが甘い。私は仕事帰りのコートの襟を立てた。風が乾いていて、頬に当たると軽く痛い。夏の湿気が去ると、世界の輪郭が急にくっきりする。くっきりすると、間違いもくっきり見えてしまう。
クリーニング屋のガラス戸を開けると、店内の空気がふわっと温かかった。洗剤の匂いと、アイロンの熱の匂い。カウンターの上に白いレシートが並んでいる。私はポケットから自分の控え札を出した。紙の端が少し曲がっている。これも私の生活の端っこ。
「お預かり票、お願いします」
店員さんが言って、私は札を渡した。番号は確かに覚えている。覚えている、というより何度も確認した。大事なコートだった。秋冬を越えるための、ちょっといいやつ。
店員さんが奥へ消えて、ラックの音がした。金属が擦れる音。ハンガーがぶつかる音。私はその音を聞きながら、スマホを取り出しかけて、やめた。待つ時間に通知を入れると、待つのが余計に長く感じる。だから今日は、ただ待つ。
店員さんが戻ってきて、ビニールのかかったコートを差し出した。
「こちらになります」
私は受け取って、重さを確かめた。重さは合っている。ビニール越しに生地を触る。手触りも、まあ合っている。合っている……はず。
でも、色が違った。
私のコートは濃いネイビーで、これは黒に近い。しかも、ボタンの形が違う。私のはマットで丸いのに、これは光沢があって細長い。ビニールに貼られたタグが、私の札の番号と一致している。数字だけは、きっちり。
起。小さな摩擦が起きる。
「あの……すみません」
私は言い切らずに、コートと札を交互に見た。言い切ると、責めになりそうだった。けど、状況としては責めたい。だって違う。
店員さんが顔を上げる。
「はい」
「これ……私のじゃない、気がします」
気がします、で逃げ道を残した。逃げ道を残したのは優しさというより、怖さだ。間違っていたら恥ずかしい。私が勝手に「違う」と決めつけて騒いでいたら、私はただの面倒な客になる。面倒な客になりたくない。でも、自分のコートはちゃんと取りたい。
承。誤解が膨らむ。
店員さんの表情が一瞬だけ止まった。止まると、私の中の疑いが跳ねる。
――え、これ、間違えた?
――いや、タグは合ってる。じゃあ私が勘違い?
――でもボタンが違う。色も違う。
――タグの付け替えミス?
――もしかして、誰かに持っていかれた?
「誰かに持っていかれた」という想像は、勝手にドラマを作る。作ると、私の心拍が上がる。上がると、店員さんの動きが全部怪しく見える。怪しく見えると、相手の言葉が信用できなくなる。私は自分で自分を疲れさせる装置を持っている。疑い、という装置。
店員さんは慌てた様子は見せず、コートを受け取ってタグを確認した。
「番号、こちらで合っていますね。……念のため、お名前も確認させてください」
声が淡々としている。淡々としているのが、逆に怖い。淡々=慣れてる? よくあること? つまりミスが多い? ――ほら、疑いが勝手に増殖する。
私は名前を言った。言いながら、自分の声が少し硬いのがわかった。硬い声は、相手を硬くする。そういう連鎖も知っているのに、止められない。
店員さんは「少々お待ちください」と言って、奥へ行った。私はカウンターの前に立ったまま、レシートを握った。角が少し湿る。手汗だ。秋なのに手汗。自分の身体は、季節より先に不安に反応する。
奥から、別の店員さん――たぶん店長さんが出てきた。白髪混じりで、眼鏡の奥の目が柔らかい。
「お待たせしました。ご不安にさせてしまって申し訳ありません。確認しますね」
転。背景が一つだけ見える。
店長さんは、まず私の札の番号を控えに照らし、次にビニールのコートのタグを裏側までめくって見た。タグの糊が少し浮いている。そこに小さな別の番号が書かれていた。薄い鉛筆のような文字。
「このコート、タグの上から貼り直されてますね。たぶん、仕上げ場で一回剥がれたのを貼り直したときに……」
貼り直したときに、違うタグを貼った。たったそれだけのこと。誰かが盗んだとか、悪意とか、そういう話じゃない。作業のタイミングと、剥がれるという物理の都合。仕組みの中の小さなズレ。
店長さんは続けて言った。
「こちらで必ず探します。お預かり品は全部番号で管理してますので、他の方に渡っている可能性は低いです。少しだけお時間ください」
低いです、という言い方が、断言じゃないのに頼もしかった。言い切らない安心。私はその場で、ふっと息を吐いた。息が入ると、視界が少し広がる。狭くなっていたのがわかる。
店員さんが奥でハンガーを動かす音がする。ラックの金属音。紙をめくる音。私はカウンターの前で待ちながら、さっきの自分を思い出した。誰かに持っていかれた、という想像。勝手に悪役を作った。悪役がいると話は早い。早いけど、疲れる。疲れるだけじゃなく、相手にも伝わる。伝わると、確認作業がやりにくくなる。悪循環。
数分後、店長さんが戻ってきた。
「こちら、お客様のコートです」
ビニールの中のネイビーが、夕暮れの光を少し吸っている。ボタンも、私の知っている形。私は受け取って、タグの番号を見た。確かに私の札の番号。今度は、タグの裏の小さな文字も見た。確認する目が増えた。疑いじゃなく、手順として。
「すみません……お手数かけて」
私は言った。言い切った。謝るのが正しいからじゃなくて、空気を整えたかった。
店長さんは軽く首を振った。
「いえいえ。こちらこそ。今後こういうことがないように、タグの貼り方も見直しますね」
結。少しだけ行動が変わる。
私も、変える。疑う前に、まず「確認の言葉」を選ぶ。強い言葉を使わない。相手を敵にしない。便利なドラマを脳内で作らない。自分の疲れを増やさない。
店を出ると、商店街の灯りが点き始めていた。提灯の赤。コンビニの白い光。秋の夕暮れは短い。短いから、間違いもすぐ夜に飲まれる。
私はコートを腕にかけたまま、歩いた。ビニールがカサカサ鳴る。小さな音。さっきの怒りや疑いよりずっと小さい音なのに、今はその音がありがたい。現実の音は、たいてい小さい。
帰り道、私はレシートを財布に入れた。角はもう湿っていない。乾いている。秋の空気が、紙も私も少しずつ落ち着かせる。疑いは自分を守る顔をして、実は自分を削る。削るのを、今日は一ミリだけ減らせた。
通知が鳴らなくても、世界は続く。タグが剥がれても、誰かが貼り直して、また整う。私は夕暮れの空を一度だけ見上げて、ネイビーのコートの色が、空に少し似ていると思った。
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