第19話 “映える”の圧と救い

 カフェのテーブルって、なぜあんなに小さいのに、世界を全部載せようとするんだろう。


 夏の午後、駅前の路地を一本入ったところのカフェに、私は真帆と来ていた。冷房の風がドアの隙間から漏れていて、入口付近だけ少し寒い。店内に入ると、焙煎の匂いと柑橘の香りが混ざって、息が一回だけ深くなる。外の湿気が服に貼りついていたのに、ここでは少しだけ剥がれる。


「ここ、最近“映える”って」


 真帆が言った。彼女はいつも語尾を軽くする。重くなる前に空気を逃がす人だ。


「うん……だから来た」


 私は言い切らない。言い切ると自分の浅さが確定しそうだから。でも、来た理由はたぶんそれだ。“映える”。便利な言葉なのに、いつの間にか圧になる言葉。


 席に案内されて、メニューを開いた。氷がたっぷり入ったドリンクの写真が並んでいる。透明なグラス、きらきらのシロップ、ミント。画面の中でだけ完璧な夏。


「私はレモネードにする」


「じゃあ……私は、桃のソーダ」


 頼んでから私はすでにスマホを取り出していた。机に置かれた水のグラスを、試しに撮ってみる。角度を変える。逆光。影。撮っても撮っても「これじゃない」感じがする。現実が画面に負けている。画面に勝とうとして、現実がどんどん遠くなる。


 ドリンクが来た。店員さんが「お待たせしました」と言って、グラスを置く。氷がカラン、と鳴った。その音が、夏の正解みたいだった。


 桃のソーダは淡いピンクで、上に透明な泡が乗っている。かわいい。かわいいのに、私はすぐ飲めない。飲む前に、やることがある。


 撮影。


 私はスマホを構えて、グラスを少し回した。ミントがいい位置にくるように。ストローの角度を調整して、ガラスの結露を指で拭こうとして、逆に指紋をつけた。指紋って、存在感が強い。しかも、映る。


「紗季、飲まないの」


 真帆が言った。彼女はもうレモネードをひと口飲んでいる。氷がまた鳴る。音が遠い。


「うん、ちょっと……」


 ちょっと、が長い。長くなるほど、焦る。焦るほど、撮る。撮るほど、会話が抜けていく。私はグラス越しに画面を見て、現実の真帆の顔がぼやけるのに気づいた。背景ぼかしは自分でやっている。


 真帆が何か話している。口が動いている。笑っている。私は「うん」と相槌を打った。打ったつもりだった。相槌って、無意識でできるから怖い。無意識の相槌は、たまに人を傷つける。


「……今の、聞いてた?」


 真帆が言った。言い方が軽いから、余計に刺さる。軽い刃物。夏の氷みたいに。


「ごめん」


 私は言った。短く。謝るときの短さは、自分を守るためでもある。説明すると言い訳になるから。


「大丈夫。わかるよ、撮りたいんだよね」


 真帆はそう言って、スマホを机の上に置いた。置き方が雑じゃない。雑じゃないのが優しい。


 私はさらに焦って、さらに撮った。焦りは、正しい方向に行かない。泡が消えそう。氷が溶ける。結露が増える。夏は時間が早い。映えの条件は、時間と戦うことみたいになってくる。


 画面の中の桃のソーダは、まだ「完璧」じゃない。完璧って何。私はどこへ行こうとしている。自分で自分に突っ込みたくなるのに、手だけが止まらない。


 そのとき、真帆が言った。


「貸して」


「え」


 真帆は私のスマホを受け取って、当たり前みたいにカメラを起動した。角度を決めて、私のグラスをほんの少し手前に引く。レモネードと並べて、色の対比を作る。窓からの光が当たる位置に、影を置く。氷が光る。カラン、と鳴る。


「はい、今。——撮れた」


 真帆は言い切った。言い切ると、世界が決まる。決まると、終わる。終わると、飲める。


 私は画面を見た。そこには「私が撮りたかった夏」が写っていた。悔しい。ありがたい。悔しいのにありがたい。感情が渋滞する。


「うま……」


「でしょ。役割分担」


 真帆が笑った。役割分担って、こんなに救いになるんだ。私は今まで、全部一人でやろうとしていた。撮って、選んで、投稿して、会話して、楽しんで。欲張りすぎて、全部薄くしていた。


「私、撮るの苦手だからさ。紗季が撮りたいの、全然いい。でもさ、撮る時間と、味わう時間、分けたら?」


 真帆はストローで氷をゆっくり混ぜた。氷がカラン、カランと二回鳴る。その音が、区切りみたいだった。


「……分ける」


 私は口の中で言ってみた。言ってみると、できそうな気がする。できそうって思うだけで、肩が一ミリ下がる。


 私はスマホをテーブルの端に伏せた。伏せると画面が見えない。見えないと、世界が少し近づく。私はようやく桃のソーダを飲んだ。炭酸が舌に刺さって、甘さが遅れて来る。おいしい。おいしいって、画面には写らない。でも、今の私にはちゃんと入る。


「で、さっきの話、もう一回言って」


 私は言った。言い切らない感じで、でもちゃんと求める。真帆が「いいよ」と言って、話を続ける。私は聞いた。聞くと、氷の音が背景になる。会話が前に出る。


 しばらくして、私たちはもう一枚だけ写真を撮った。今度は最初に「撮る時間、三十秒」と決めて、二人で笑いながら撮った。三十秒って短いのに、決めるとちゃんと足りる。決めないと永遠になる。映えの圧は、無限に追いかけてくるから。


 帰り際、スマホが震えた。既読の通知。グループチャットが動いているらしい。私は画面を開きかけて、やめた。今は、手が冷たいグラスの余韻を覚えている。氷の音も、まだ耳に残っている。


 カフェを出ると、外は湿気が重かった。夏の匂い。アスファルトの熱、日焼け止め、遠くの夕立の気配。私の髪が少しだけ肌に貼りつく。真帆が「暑いね」と言って、二人で笑う。笑いが、ちゃんと会話の中にある。


 “映える”は、敵じゃない。撮るのも、楽しい。でも楽しいを守るには、時間を分ける必要がある。撮る時間と、味わう時間。役割分担と、区切り。


 通知が鳴らなくても、世界は続く。氷が溶けても、夏は続く。私はスマホをポケットにしまって、空気の湿り気を吸い込んだ。今の夏を、画面じゃなく鼻と舌で持ち帰るために。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る