第13話 先生の珍回答コレクション

 会社の休憩室で、誰かが「珍回答ってあるよね」と言った。


 コピー機の前で、紙が吐き出される音。コーヒーの匂い。窓の外は春で、でも室内の空気はエアコンで乾いている。私は書類の端を揃えながら、ふっと昔の教室を思い出した。春の教室って、チョークの粉と、ワックスと、制服の布の匂いが混ざっている。


 高校のとき、国語の先生が「珍回答コレクション」をやっていた。


 教室の後ろの掲示板に、テストの答案のコピーが貼られる。名前は黒く塗られていて、赤ペンで丸や矢印がついている。先生はそれを指さして、口癖みたいに言う。


「これはね、発想が自由。自由すぎる。……でも、嫌いじゃない」


 その「嫌いじゃない」が、スタンプみたいに毎回押される。ぺたん。笑っていいよ、でも踏みつけるなよ、という合図みたいに。


 その日は現代文の小テストだった。設問はたしか「作者の気持ちを四十字で説明せよ」。先生が掲示板に貼った一枚に、赤い字で大きく丸がついていた。


『作者はたぶん、眠い。』


 教室が、どっと笑った。笑いって、湧くときは湯気みたいだ。自分の意思より先に立ち上がる。私も笑ってしまった。声を抑えようとして、余計に肩が震える。


 先生は黒板の前で腕を組み、例の口癖で言う。


「自由。自由すぎる。……でも、嫌いじゃない」


 笑いがもう一段上がる。先生の言い方が上手いからだ。笑いの方向を、ちょっとだけ上に向ける。人に刺さらない角度に。


 でも、その答案を書いた当人——前の席の篠原くんは、笑っていなかった。


 篠原くんは、普段から静かな子だった。授業中に当てられても、声が小さくて、先生が「聞こえない」と言うと、さらに小さくなる。今も、背中が固くなっているのが見えた。耳の後ろが赤い。赤いのは、春の光のせいじゃない。


 私は笑いながら、急に口の中が乾いた。笑いが、自分の喉に引っかかる。笑っていいの? でも笑っちゃった。笑わないと、逆に変に目立つ。そんなふうに頭の中で言い訳が渋滞する。


 後ろから誰かが小声で言った。


「篠原のやつ、マジで草」


 草、って言葉が当時はまだ新しくて、私はそれが妙に嫌だった。草って、踏んでも平気なものみたいに聞こえる。人の答えは草じゃない。


 篠原くんが、ほんの少し肩をすくめた。笑いをやり過ごす姿勢。やり過ごすって、慣れてないとできない。慣れたくないのに、慣れてしまう。


 先生は笑いが落ち着くのを待って、黒板にチョークで「眠い」と書いた。白い粉がふわっと舞う。先生はその下に、小さく「根拠」と書いた。


「みんな、今笑ったよね。笑っていい。だけど、ここからが国語」


 教室が、すっと静かになる。先生の声の「間」が変わる。スタンプを押すときの間じゃなくて、ちゃんとした話をするときの間。


「この答え、四十字の形としては……まあ、短すぎる。これは注意」


 先生は「注意」のところでチョークをトントンとした。音が乾いていて、冷たすぎない。怒鳴らない注意って、耳に残る。


「でもね、“眠い”って言いたくなる気持ちは、本文に確かにある。段落のここ、読んだ?」


 先生は本文の一文を板書した。具体的な箇所。私はその瞬間、笑いが少しだけ別物になった。さっきの笑いは「変だ」で、今の笑いは「なるほど」になりかける。


 先生は掲示板の答案を指さして、続けた。


「篠原の——」


 言いかけて、先生は言い直した。


「この回答を書いた人はね、言い方が雑だった。でも、見たものは当たってるかもしれない」


 名前を言わない。言わないのに、守る。守りながら、ちゃんと教材にする。先生は「尊厳」を扱う手つきを知っていた。


「笑いってのは、鋭いから。人に向けると刺さる。だから“本文に向ける”。作者のここが眠そう、って言うのはいい。でも“人が眠い”って決めつけると、ただの悪口になる」


 教室の空気が、少しだけ落ち着いた。篠原くんの背中も、ほんのわずかに柔らかくなった気がした。気がしただけかもしれない。でも、気がすることが大事なときもある。


 先生がいつもの口癖を、少しだけ違う調子で言った。


「自由はね、守られてるときに伸びる。……嫌いじゃないよ」


 その「嫌いじゃない」は、笑いを促すスタンプじゃなくて、許可証みたいに聞こえた。ここにいていい、っていう。


 授業が終わって、私はトイレに行くふりをして廊下に出た。窓から春の光が差して、廊下のワックスが少し甘く匂う。遠くで部活の掛け声。私は息を吸って、吐いた。呼吸が、さっきまでより静かだ。


 掲示板の前を通りかかったとき、篠原くんが一人で立っていた。答案を見ている。自分の答えだとわかるのに、名前がないから、見ているだけの人にも見える。


 私は声をかけるか迷った。迷って、結局、何も言えなかった。何も言えないまま、すれ違った。そういうすれ違いが、高校にはたくさんある。たぶん今もある。


 でも、先生の言い方だけは、残った。


 笑いと尊厳を両立する言い方。


 それは、誰かを黙らせる強さじゃなくて、方向を変える強さだ。矢印を人から本文へ。人から仕組みへ。人から状況へ。刺 prevent するための、言い直し。


 ——そして今。


 休憩室で、同僚が「珍回答ってあるよね」と笑ったとき、私はそのまま笑いに乗りかけて、先生のチョークの音を思い出した。トントン。注意は、音量じゃない。


「あるね。でも、答えた人のほうは、けっこうドキドキだよね」


 私はそう言った。言い切らないように、少しだけ間を置く。責めるじゃなく、確認として。


 同僚は「あー、確かに」と言って、笑いの角度が少し変わった。誰かを下に見る笑いじゃなく、自分もそこにいる笑いになる。


 私は心の中で、先生の口癖のスタンプを押した。


 嫌いじゃない。でも、雑にしない。


 窓の外の春の光は、高校の教室と同じ色だった。チョークの粉の匂いまではしないけれど、紙の匂いと、少しだけあたたかい空気がある。通知が鳴らなくても、時間は進む。進むから、私は今日も、笑いの方向を一ミリだけ調整する。

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