閑話 希望という力

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 静かな夜は、耐えられない。悲しい気持ちを無視できなくなるから。

 裕福な家だった。恵まれていたと思う。食事や衣類、勉強の環境、セキュリティ、あらゆるものが充分に与えられていた。

 幼い私はそれをなにも気にせず享受していて、そこには一切の遠慮もなく、いずれその代償を払うことになるとも知らなかった。

 そんな、生ぬるい湯の中に浸かっているようなぼんやりした意識のまま、私は成長していった。

 周りを囲んでいるのも同じように恵まれた人たち。だから自分の境遇について、何も疑問が湧かなかった。

 だけど、あの人と出会って、全てが変わった。

 北海道から出てきたという彼は、大人しくも反骨精神豊富で、その地頭と努力だけで、私たちの住む世界までやってきた。

 私は彼と話すごとに、自分の頭に貼りついた常識が、ぺりぺり剥がれていくのを感じた。違う、知らない、そんな世界。

 だけど、面白い。

 私は気づけば彼の話に夢中になっていた。苦しみ、困難、そしてそれでも立ち上がる強さ。私にはないもの。私はかっこいいと思った。

 私もそうなりたい。そう言えば、彼は私を鼻で笑った。


「君みたいなお嬢様が、そんなことできるわけないじゃん」


 私はむっとして彼を見た。すると、彼は少し慌てて、「でも、それなら俺の実家に来てみる?」と聞いてきた。


「俺の生活も体験してみたら、面白いんじゃない?」

「それって、結婚の挨拶……みたいな?」

「まあ、そうかもね」


 曖昧な返事にまたむっとしたけど、胸がふわふわ温かくなった。

 私はなんとなく、彼と結婚するんだろうなと思っていたけれど、それがついに実現するんだと分かって。


「お父さんに、結婚のこと、話さないと」


 ふとお父さんのことを思い出して、私は青ざめた。


「別にそんなに焦らなくて良いんじゃない?」

「いや……お父さんは、もしかしたら」


 私は家に帰ってから、考えた。お父さんは私のことを溺愛している。彼のような田舎出身の人だと、結婚を許してもらえないかもしれない。

 話そうか悩んだけど、結局、夜遅くに帰ってきたお父さんに、勇気を出して話をした。


「お父さん、私、結婚したい人がいるの」

「……どこの誰だ、その男は」


 私はお父さんに、なるべく彼が良い風に聞こえるように頑張って言葉を紡いだ。しかし、私が彼の家の話をすると、お父さんの目は鋭くなった。


「悪いが、そんな出自の怪しい男とは結婚させられない」

「そんな……!でも、彼はとっても優しくて、賢くて、私のことも愛してくれて……」

「考え直しなさい。きっと、優里奈にはもっと良い相手がいるはずだ」


 そう言ってお父さんは自分の部屋に戻ってしまった。

 私は部屋に取り残されたまま、どうしよう……と床にへたり込む。

 結婚を諦めるつもりはない。でも、お父さんに反対された状態で結婚すれば、いざというとき困るのは間違いない……。

 私はそれから何日も、お父さんに説得を繰り返した。だけど、私が言い募れば言い募るほど、お父さんも頑固になっていった。

 ある夜、とうとう大げんかした。


「そんな男を選ぶなんておかしいんじゃないのか!」

「彼のことをなにも知らないくせによくそんなことが言えるわね!私が選んだ人なのに、なんで、お父さんは認めてくれないの?」


 私は怒りにまかせて叫ぶ。どうして理解してくれないんだろう。私のことを信じてないの?


「お前はまだ子どもだからだ」


 お父さんは同じことばかり繰り返す。私はまだちゃんと判断できる年じゃないって。でも、それじゃあいつになったら私は大人として認めてもらえるのだろう。


「私はもう20歳よ!将来のことだっていくらでも考えられる年だわ!」

「今まで何不自由なく育ててやったくせに、今更歯向かう気か!」

「……ッ、もう、お父さんなんか大っ嫌い!」


 私はそのまま家を飛び出して、彼の住んでる一人暮らしのアパートに駆け込んだ。


「そっか……そんなに反対されてるんじゃ、結婚も先延ばしにした方が良いかもしれないね」


 彼の言葉に、私は嫌よ!とクッションに埋めていた顔をあげた。


「どうせお父さんはずっと認めてくれない!あの剣幕じゃ……私、家を出るわ」

「えっ、それはやめておいた方が……」


 私がふん!と鼻息荒く宣言すると、彼は戸惑ったようにそう口を挟んだ。


「なんでよ」

「だって、学費も生活費も、全部お父さんに出してもらってるんだろ?それを急に全部失ったら、どうやって生きてく気だよ」

「それは……確かにそうね」


 私はその通りだと思って、冷静になった。

 とはいえ、このままお父さんと暮らしていく気にもなれない。私は今回のことで分かった。お父さんは本当に私を愛して大切にしてはいないのだ。ただ、自分の所有物のように考えているだけに違いない。

 逃げ出したい、と思った。普通に、努力して、自分の力で、色んなものを得てみたい。そんな風に思うのは、自分でも初めてだった。


「バイトして、なんとかならないかな……」

「流石に無理だと思うよ……でも、お父さんを説得できるまで、ここにいればいいよ」

「ありがとう、博人」


 私は嬉しくなって彼に抱きついた。彼は照れくさそうに私を抱きしめ返してくれた。


「それで、結婚はまだ先になるかもしれないけど、挨拶くらいはしておいて良いんじゃないかと思ってさ」

「挨拶?ああ、博人のご両親にね」

「そう。今度行こうよ、北海道」

「うん……!」


 北海道。綺麗なところだよね……一度、美しい景色を見に、家族で行ったことがある。同じ日本じゃないくらい綺麗な場所だった。そんなところが私の第二の故郷になるかもしれないと思うと、とても嬉しかった。

 そうして、私は彼と一緒に、北海道へと旅立った。

 北海道では、彼の両親に温かく迎えてもらった。美味しい海鮮を堪能し、美しい景色に圧倒され、とても楽しい日々を過ごした。


「私、ずっとここにいたい……」


 夢見心地で呟くと、彼が側に来て苦笑する。


「どうせ将来は住むことになるよ」

「そう……そうだよね……はぁ……」


 でも、北海道最後の日、事件が起きた。

 夜中にピンポーンと鳴ったインターホン。お義母さんが応対した相手を、私ははじめ、大して気にしていなかった。

 悲鳴が聞こえて玄関に向かったときには、お義母さんは倒れていて、真っ赤な血が床を伝っていた。

 私は状況が理解できず、頭が真っ白になった。

 隣にやってきた彼が、「早く逃げろ!」と言って玄関に上がってきた男に立ちはだかった。私はその瞬間にハッとして、慌てて裏口から急いで走る。

 後ろで彼の悲鳴が聞こえた。私は怖くて怖くて、無我夢中で走った。

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