◆ episode5.

九条さんの背中が、先に動いた。

私は彼女と目を合わせるでもなく、

ただ自然にその後ろへついていく。

追う、というより、離れないだけ。

それがいちばん正しい距離だと、身体が知っている。


パリの深夜は人影が薄いのに、灯りだけが残っている。

黄色いランプが石畳に滲んで、光が水みたいに揺れていた。

この街は、どんな感情にも薄いフィルターをかけてしまう。

悲しみさえ、きれいに見せてしまう。

だから厄介だ。


私は、見た目に騙されないようにする。

光の美しさの奥で、九条さんが落ちていく速度だけを見る。


歩く速さが、少し上がっている。

肩の線が、わずかに前へ倒れている。

呼吸が、乱れている。


言うべき言葉を選び、いちばん小さくした。


「寒くないですか」


九条さんは首を振った。返事はない。

白い息だけが短く浮かんで、すぐ消えた。


横顔が、昼の天才の顔でも、

さっきまでの少年みたいな顔でもない。

ただ、生きている、というだけの顔。

誰にも見せない、骨のところの顔。


私はそれを知っている。

そして、その顔を見たときに、言葉が薄くなるのも知っている。



しばらく歩いて、九条さんがふっと止まった。

迷った止まり方じゃない。

追いつかれたみたいな止まり方。

後ろから来たものに肩を掴まれたように、身体だけが止まる。


「……なんかさ」


低い声が、夜の空気をまっすぐ切る。

隣の彼女の息が一瞬止まるのが分かった。私も同じだった。


「今日……違ったよ」


違った。

その一言に含まれる範囲が広すぎて、返事ができない。

でも九条さんは返事を求めていない顔をしていた。

ただ、落ちる音を外へ出しているだけ。


「楽しかったのに。笑ってたのに。

全部うまくいってたのに……」


言葉がゆっくり落ちていく。

ひとつひとつが、重さだけを持って。


「胸の奥のどっかが、ずっと空いてた。

穴、みたいなのがあってさ。塞がらない。何やっても」


淡々としている。

淡々としているから、痛い。

飾っていない声は、骨に当たる。


九条さんがタバコを出した。

火をつける手が少し震える。

私は見逃さない。でも、見たと言わない。

見たと言った瞬間、彼はまた“いつもの顔”に戻る。


煙が夜に溶けていく。

九条さんが目を閉じる。

何かを押し戻すみたいに。


「……帰りたくない」


拒絶でも、わがままでもない。

ただ、素の本心が口から落ちただけの音だった。


「帰ったら、また全部いつもの顔に戻らなきゃなんねぇだろ」


私は、言葉を選ぶふりをして、選ばなかった。

選んだ瞬間に嘘になる気がした。


「戻らなくても、いいですよ」


声は薄い。

薄いけれど、言わないよりはましだ。

正論は薄い。慰めも薄い。

でも薄い言葉でも、夜の底に小さな杭を打てることがある。


九条さんは小さく笑った。

笑顔の形だけあるのに、痛い。


「……いや、戻るよ。俺はそういう生き方なんだよ」


“そういう生き方”。


誇りみたいに言っているのに、どこか檻みたいでもある。

私は長いあいだ、その檻の鍵束を預かってきた気がする。

鍵を回して、整えて、閉じて、また開けて。

誰も見ない場所で、何度も。


でも今夜、鍵は私の手だけにない。


九条さんが煙を吐いて言った。


「……もうちょっと、付き合って」


その一言で、夜の濃度が一段深くなる。

頼られたことが救いじゃない。

でも、“頼る音”を出せるようになったことは救いだ。


私は頷く。彼女も頷く。

三人でまた歩く。



しばらくして、九条さんがぽつりと落とす。


「……俺さ。たまに、消えたくなるんだよ」


パリの灯りが滲む。

滲むのに、言葉だけは異様に鮮明だ。

私は足が止まりそうになるのを、腹の奥でそっと止めた。


「別に死にたいとかじゃねぇよ。

ただ……なんか重くてさ。いろいろ全部。勝手にのしかかってくる」


言いながら歩く。

弱音を吐いた本人がいちばん、それを聞かれたくないみたいに歩く。

私は返事をしない。

返事という形の言葉は、この瞬間には雑すぎる。


彼女も黙っている。

でも、黙り方が違う。

静かに熱を溜めている黙り方。

火がつく直前の、静かな硬さ。


九条さんが、照れ隠しみたいに言う。


「……忘れろ。深夜のテンションってやつ」


そして、ふっと空を見上げる。


「でも——今日、お前らいて助かったわ」


助かった。

九条さんがその単語を口にするのは、めったにない。

私は胸の奥で、その言葉を押さえる。

この人が今日、誰かに寄りかかった音。

それは弱さじゃなくて、生きる側へ戻る音だ。



街灯の下で、三人の影が並ぶ。

影が長く伸びる。

並ぶ影を見ると、

関係の配置がゆっくり決まっていくのが分かる。

誰も指示していないのに、自然に。


九条さんが言った。


「……どっか行きたいとこある?」


彼女が即答する。

「どこでもいい。いまは、あなたが行きたいほうで」


その一言に、九条さんの呼吸がほんの一瞬止まった。

そして、かすかに笑った。壊れかけの強さで。


「……じゃあ、もうちょい歩くか」


そのまま、パリの奥へ。

光の薄いほうへ。


普通なら“落ちる”方向だ。

でも私は怖くなかった。

怖くないというより、怖がる資格がない。


私はこの人の落ち方を何年も見てきた。

ただ今日は落ち方が違う。

今日の落下は、どこか“再生”に寄っている。


九条さんが吐き捨てるみたいに言う。


「俺なんかさ、別にいなくても回るよ。世界も。仕事も。チームも」


その瞬間、彼女の中で何かが切れたのが分かった。

音がしたわけじゃない。

でも空気の硬度が変わった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る