第6話 「君色に染まる」という言葉の、物理的かつ強制的な意味について
週末。
俺、市之瀬駆は、駅前の待ち合わせ場所にある時計台の下で、石像のように固まっていた。
約束の時間は午前10時。現在は9時45分。
15分前行動は社会人の基本であり、猛獣使いの鉄則でもある。「遅刻」という名の死刑執行ボタンを押されるわけにはいかない。
それにしても、落ち着かない。
制服ではない、私服での外出。しかも相手は学校一のギャル・胡桃沢莉奈。
俺の今日のファッションは、母親が「あんたこれ着なさい」と買ってきた無難なチェックシャツと、何年も履いているジーンズ。
鏡を見た時は「まあ普通か」と思ったが、この華やかな駅前に立つと、自分が背景のモブキャラであることを痛感させられる。
「――駆」
声をかけられた瞬間、周囲の空気が華やいだのがわかった。
振り返った俺は、数秒間、呼吸を忘れた。
「あ……おはよう、莉奈」
そこに立っていたのは、いつもの制服姿とは違う、破壊力抜群の胡桃沢だった。
肩が大胆に開いたオフショルダーの白いニットに、体のラインが出るタイトなミニスカート。足元は厚底のブーツ。
黄金色の髪は緩く巻かれており、大人びたメイクと相まって、そこだけファッション誌の撮影現場のようなオーラを放っている。
「ん、おはよ。……早かったね。偉いじゃん」
彼女はスマホをバッグにしまいながら、俺の全身をジロリとスキャンした。
その視線が、俺のチェックシャツで止まる。
「……」
「……なに?」
「だっさ」
「直球だね!」
胡桃沢は眉間に深い皺を寄せた。
「なにその中学生みたいな服。お母さんに買ってもらったの?」
「……図星だけど」
「はぁ……。まあいいや、予想通りだし」
彼女はため息をつくと、俺の腕を強引に取った。
柔らかいニットの感触と、素肌の温度が腕に伝わる。ドキッとする俺を無視して、彼女は俺を引きずり出した。
「行くよ」
「え、どこへ?今日は映画を見るんじゃ……」
「予定変更。まずはその『モブ装備』を廃棄処分にする」
彼女の瞳がギラリと光った。
「今日は徹底的にやるから。私の彼氏として恥ずかしくないように、全身改造(コーディネート)してあげる」
◇
連れてこられたのは、若者向けのブランドショップが入ったファッションビルだった。
大音量のBGM。香水の匂い。煌びやかな照明。
俺のような陰キャが入店するだけでセキュリティアラームが鳴りそうな空間だ。
「莉奈、ちょっとここ、俺には場違い感が……」
「うるさい。黙って私についてくればいいの」
胡桃沢は迷うことなくメンズフロアへ進むと、手当たり次第に服を手に取り、俺の体に当て始めた。
「んー、これだと地味すぎ。こっちはチャラすぎ……あ、これいいかも」
「ちょっと待って、それ値段が……!」
「私が選んでるんだから口出し無用」
彼女は次々と服を選んでいく。
黒のスキニーパンツ、シンプルなロゴTシャツ、流行りのオーバーサイズのジャケット。
俺の意志は介在しない。俺はただのマネキンだ。
「はい、これ着てきて」
「了解です……」
山のような服を渡され、俺は試着室へと押し込まれた。
カーテンを閉め、着替える。
慣れない細身のパンツに足を通すのに苦戦しつつ、なんとか一着目を着終えた。
鏡を見る。
……悪くない。というか、いつもの自分とは別人のようだ。
「駆ー?まだー?」
「あ、うん。今着替えた」
俺がカーテンを開けようとした、その時だった。
シャッ!
外から勢いよくカーテンが開けられた。
「うわっ!?り、莉奈!?」
「遅いから入ってきた」
胡桃沢が当たり前のように、狭い試着室の中に入り込んでくる。
ただでさえ狭い空間に、二人の人間。密着度は限界突破だ。
「ちょ、ここは男子の試着室……!」
「店員さんには許可取ったし。彼女のチェック入りますーって」
「どんな許可だよ!」
胡桃沢は俺の抗議をスルーして、俺の胸元に手を伸ばした。
「ほら、襟曲がってる。だらしない」
「じ、自分でやるよ」
「動かないで」
彼女の顔が近い。
長いまつ毛の一本一本まで数えられそうだ。
彼女は俺の襟元を直しながら、フンフンと匂いを嗅ぐような仕草をした。
「……ん。悪くない」
「え?」
「やっぱり駆は、素材はいいんだよね。磨けば光るタイプっていうか……私の目に狂いはなかったっていうか」
彼女は独り言のように呟くと、俺の顎を指先でクイッと持ち上げた。
鏡の中に、スタイリッシュな服を着た俺と、それに寄り添う美しいギャルの姿が映る。
客観的に見れば、お似合いのカップルに見えなくもない。
「うん、合格。これに決定」
「あ、ありがとう。じゃあ着替えるから出て行って……」
「待って。まだズボンの丈チェックしてない」
胡桃沢はその場にしゃがみ込んだ。
俺の足元に彼女がいる。その状況だけで心拍数が跳ね上がる。
彼女は裾を折り返しながら、俺の太ももあたりをペタペタと触ってきた。
「細いなぁ。もっと食べて筋肉つけないと」
「くすぐったいって!」
「あ、そうだ。ベルトも変えなきゃ」
彼女が立ち上がり、俺のベルトに手をかける。
カチャリ、とバックルが外れる音が、妙に大きく響いた。
「り、莉奈さん!?何してるんですか!?」
「なに動揺してんの?新しいベルト通すだけでしょ」
「いや、場所と状況を考えて!」
「……ふふっ」
焦る俺を見て、胡桃沢は楽しそうに笑った。
完全に遊ばれている。
「駆の反応、面白すぎ。……でもさ」
彼女はベルトを通し終えると、俺の腰に腕を回して、ぎゅっと抱きついてきた。
試着室という密室で。逃げ場のない状態で。
「こうやって着せ替えごっこしてるの、なんか……『私だけのモノ』って感じで、興奮する」
「……!」
「頭の先から足の先まで、私が選んだ布で覆ってるんだもんね。実質、私が包んでるようなもんじゃん?」
思考回路が独特すぎる。
だが、彼女の瞳はトロンと潤んでいて、本気でそう思っているのが伝わってくる。
彼女にとって、俺のコーディネートはファッションではなく、マーキングの一種なのだ。
「……大事に着るよ」
「当たり前。汚したら許さないから」
彼女は満足げに俺から離れると、パッとカーテンを開けた。
「店員さーん!これ全部くださーい!」
「えっ、全部!?ちょっと待って、総額いくらに……!」
「私が払うからいいの。先行投資!」
俺の財布(生存権)を守るためではなく、彼女自身の満足のために、俺のクローゼットの中身はこの日、総入れ替えとなった。
◇
買い物を終え、俺は全身新品のコーディネートで街を歩いていた。
手には、入りきらなかった服が入った大量の紙袋。もちろん俺が持っている。
隣を歩く胡桃沢は、上機嫌でタピオカミルクティーを飲んでいた。
「うん、いい感じ。周りの視線が変わったの気づいた?」
「……まあ、さっきよりは見られてる気がする」
これまでは「なんであんな奴が」という蔑みの視線だったのが、「お、結構いいじゃんあのカップル」という視線に変わった気がする。服の力は偉大だ。
「へーえ……」
胡桃沢の声が、急に低くなった。
横を見ると、彼女はストローを噛みながら、不機嫌そうに周囲を睨みつけていた。
「な、なに?」
「なんかムカつく」
「えっ、君がコーディネートしたのに?」
「そうだけど!私がカッコよくしたのに、他の女が駆のことチラチラ見てるのがムカつく!」
理不尽の極みである。
彼女はガシッと俺の腕を抱きしめ、爪を立てるように食い込ませた。
「失敗したかも。これじゃ虫除けどころか、虫寄せになっちゃう」
「そんなことないって。誰も俺のことなんて見てないよ」
「見てる!あそこの二人組とか、さっきから駆のこと見て『意外とアリ』とか言ってるし! 地獄耳なめんな!」
彼女はブツブツと文句を言いながら、俺に新しいルールを宣告した。
「いい?この服着ていいのは、私とデートする時だけね」
「えっ」
「普段はいつものダサいチェックシャツでいい。学校でもジャージでいい。カッコいい駆を見れるのは、世界で私だけでいいの」
独占欲が服を着て歩いているような発言だ。
せっかく買ってもらった服の大半が、タンスの肥やしになることが決定した瞬間だった。
「わかったよ。君の前でしか着ない」
「よろしい」
彼女は機嫌を直すと、俺の肩に頭を預けてきた。
「……ねえ、駆」
「ん?」
「似合ってるよ。……すっごく、カッコいい」
ボソリと言われた言葉に、俺は思わず足を止めそうになった。
見下ろすと、彼女は少し顔を赤らめて、明後日の方向を見ている。
散々振り回して、所有物扱いして、最後にこういうデレを持ってくる。
本当に卑怯だ。
「……ありがと。莉奈も、その服すごく似合ってる」
俺が精一杯の勇気を出して褒め返すと、彼女は驚いたように目を見開き、そしてパッと破顔した。
「知ってる!駆のために選んだんだから!」
自信満々の笑顔。
だが、その耳が真っ赤になっていることを、俺は見逃さなかった。
俺の左手首と、彼女のバッグ。
繋がれた手錠のストラップが、歩くたびにカチャリカチャリと、心地よいリズムを刻んでいた。
全身を彼女色に染められた俺は、不思議とそれが悪い気分ではなかった。
むしろ、この「重たい鎖」が、少しずつ心地よくなってきている自分に気づき始めていた――。
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