第20話 触る前に、壊れる

玄関の靴箱の前で、舞は一度だけ立ち止まった。

靴を履く動きが遅い。かかとがうまく入らなくて、指先が小さく迷う。


私は横で、バッグの中身をもう一度だけ確認した。

外用のファイル。カードの束。断る文章のメモ。舞のスケッチブック。


それから、透明マスク。


私のためじゃない。舞のためだ。

口元が見えるだけで、舞が拾える情報は増える。

増えた分だけ、外のうるささが薄まる。……薄まってくれ、と祈る。


紐を耳にかける。

マスクの透明な部分が、部屋の光をうっすら反射した。


舞が私の口元を見る。

一秒だけ。

それから、小さく頷く。


「行ける」の合図。


私はカードを一枚抜いて、舞に見せた。


「今は、確認」


舞もカードを返してくる。


「触る前に合図」


今日は、それを守る日だ。

守らないと、壊れる。


寮の廊下は静かだった。

外に出ると、空気が一段硬い。冬の匂いがする。

大学に向かう道は、朝の光が薄くて、影がぼやける。


キャンパスに入ると、音が増える。

自転車のブレーキ。遠くの笑い声。靴底が地面を擦る音。

風で紙がばたつく音。


舞は壁側を歩く。

人の流れの内側に入らない。入れない。

目だけが忙しく動いて、口元を追う癖が外だと強く出る。


私は舞のすぐ隣には立たない。

近すぎると逃げ道を塞ぐ。遠すぎると守れない。

その中間が、いちばん難しい。


学生課の前を通る廊下。

掲示板がずらっと並んでいて、チラシが重なって光る。

色の洪水みたいで、視界の端がチカチカする。


舞は掲示板を見ない。

でも色だけは拾ってしまうのか、肩がほんの少し上がる。


私の胃がきゅっと縮んだ。

昨日、舞が裏返したチラシと同じ色が見えた。


「福祉ボランティアサークル」


文字が、目に刺さる。


その瞬間だった。


「舞ちゃーん!」


声が跳ねた。

明るい。柔らかい。語尾が伸びる。

走ってくる足音が、迷いなくこちらに向かう。


金井さんだ。


目尻が下がった慈愛の笑顔。

守ってあげる私、に酔っている顔。

笑顔が崩れる前提が、この人の中にないみたいに、ずっと同じ形で貼りついている。


「昨日はごめんねー!仲直りしよ!」


舞が反応する前に距離が詰まった。

舞はスケッチブックを抱えている。外用のファイルも持っている。

両手が塞がっている。カードを出す動作が遅れる。


舞が一歩下がる。

下がった先は、人の流れ。背中側に逃げる余地が薄い。


金井さんの手が伸びた。

肩に触れようとする。触れる理由が先に用意されている手。


「ほらほら、そんな顔しないの。私、悪気なかったんだよ?舞ちゃんのためにと思って……」


金井さんの指先が、舞の肩に落ちた。


触れた瞬間、舞の「無」が崩れた。


舞の目の焦点が、一度外れる。

透明マスクの内側で、舞の呼気が乱れたのが分かる。

呼吸が浅くなる。胸じゃなくて喉で吸うみたいな息。

肩が上がって首がすくむ。


舞は耳を塞いだ。

音を消したいんじゃない。

入ってくるものを止めたい。


「だいじょぶだよ〜、怖くないよ〜」


金井さんの声だけが、舞の中に入り込む。

怖い音は鳴っていないのに、舞の身体はもう“怖い音が来た後”みたいに反応している。


舞が腕を引く。

引きたいのに、引けない。

金井さんの指が、今度は舞の腕に回る。逃げ道を減らす触れ方。


舞のカードが床に落ちた。

紙が軽い音を立てる。

落ちたカードの文字が、ひっくり返っても読めた。


「触らないで」


舞が作ったカードだ。

舞が守るための紙だ。


紙が床に落ちている。

舞が崩れている。

金井さんの笑顔はまだ光っている。


私の中で、二つがぶつかった。


止めないと。

でも善意だ。

善意を否定するのは、私を否定することだ。

私が悪者になる。空気を壊す人になる。


一拍。

私は動けなかった。


その一拍が、吐き気になる。

昨日の私が顔を出す。場を回す私。丸く収める私。褒められる私。

蜜の味がする。気持ち悪い。


舞の呼吸がさらに乱れる。

耳を塞いだ指が震えて、肩が小さく跳ねる。

背中が壁に当たる。踵が浮く。逃げたいのに逃げられない。


守るって決めたのに。

守るって、紙に書いたのに。


私は一歩前に出た。

床のカードを拾うより先に、金井さんと舞の間に身体を入れた。

喉が痛くなるくらい息を吸う。


「触らないで!」


自分の声が廊下に跳ね返った。

周りの雑音が一瞬、遠のく。

笑い声も、足音も、全部が薄い膜の向こうに行く。


金井さんの手が止まる。

でも笑顔は、まだ貼りついている。


私はもう一度、言った。

叫ぶしかない。今は、手続きの声じゃ届かない。


「舞が、嫌がってる!」


その瞬間だった。


金井さんの笑顔が、一瞬だけ凍った。


口角は上がったまま。

でも筋肉が止まる。

目尻の下がりだけが取り残されて、瞳だけが「え?」になる。

理解できない顔。世界のルールが一度止まったみたいな顔。


「え……?」


金井さんは、笑っているはずのまま言った。


「私、謝ってるのに」

「仲直りしようって言ってるのに」


その言葉で、私ははっきり分かった。


ああ。私は今、悪者になったんだ。


善意の笑顔を止める人。

空気を壊す人。

恩知らずに見える人。


でも胸の奥が、不思議なくらい静かだった。

後悔の音がしない。

代わりに、舞の呼吸の音が聞こえる。


舞の肩がほんの少し下がった。

耳を塞いでいた指が、少しだけ緩む。

目の焦点が戻りかける。


私は、叫ばない声に切り替えた。

昨日作った文章を、頭の中じゃなく現実で使う。


「今は触らないでください」

「本人の同意が必要です」


金井さんの眉が、ほんの少しだけ寄る。

笑顔は戻ろうとするのに、戻り切らない。


「え、でもさ」

「私、悪気ないよ?助けたいだけだよ?」


助けたいだけ。

その言葉が、私の過去と同じ匂いを持っている。

“助ける側”に立てば、気持ちよくなれる匂い。


私は息を吐いた。

相手を悪者にしない。

でも入れない。

その線を守る。


「参考にしたい気持ちは分かります」

「でも、本人のものなので共有できません」

「触れるのも、同意が必要です」


金井さんの目が、少しだけ泳ぐ。

笑顔の鎧が、薄くひび割れる。


「そんな大げさにしなくても……」

「舞ちゃん、照れてるだけじゃないの?」


拒絶が照れに変換される。

その能力が、金井さんの最強の鎧。


私はもう一度、短く言った。


「違います」

「嫌がってます」


言い切ると、胸が痛い。

優しい人の顔が、剥がれていく感じがする。

でもそれでいい。今日はそれで守る。


舞が小さく咳みたいな息を漏らす。

その音にびくっとして、耳を塞ぎ直す。

まだ戻っていない。戻りかけて、揺れている。


私は舞の方を向いた。

触る前に合図。

カードを出す暇がなかった舞の代わりに、私は合図を出す必要がある。


私は指を立てて、舞の視界に入れる。

“今は止まる”の合図。

舞の目が一瞬だけ、私の口元を見る。透明マスクの内側で唇が動く。


「行こう」


舞は頷けない。

でも足が少しだけ動く。壁沿いに、すり足みたいに。


私は舞の前に立たない。

後ろにも回らない。

横、少し前。舞の逃げ道を開けたまま、人の流れとの間に身体を置く。


金井さんが追いかけてくる。

笑顔は戻っている。戻ってしまう。鎧が厚い。


「ねえ、待ってよ〜」

「私、そんなつもりじゃないってば」

「舞ちゃんもさ、ほら、話せば分かるよね?」


舞は耳を塞いでいる。

話せば分かる、の「話す」が舞には届かない。

届かない前提が、金井さんにはない。


私は振り向かずに、短く言った。


「今は無理です」

「後で、必要なら連絡します」


その「必要なら」が、自分でも怖い。

でも完全に切ると、金井さんは“自分が傷ついた側”に回って、もっと厄介になる。

私は舞を守るために、火種を増やしたくない。


階段の踊り場に入る。

壁が近い。音が少しだけ反響する。

でも廊下よりは人が少ない。


舞の呼吸が、まだ浅い。

喉で吸っている。肩が上がる。


私はカードを一枚抜いて、舞の視界に出した。


「今は、待って」


舞の目がカードに止まる。

止まって、少しだけ動く。

耳を塞いでいた指が、一瞬だけ緩む。


私はもう一枚出す。


「今は、呼吸」


舞は耳を塞いだまま、でも少しだけ頷く。

頷きが浅い。小さい。

それでも合図だ。


私は自分の胸に手を当てて、ゆっくり呼吸して見せた。

口元が見えるように、透明マスク越しに大げさに唇を動かす。


吸う。

吐く。

吸う。

吐く。


舞の呼吸が、ほんの少しだけ真似をする。

まだ途中で引っかかる。

でも、さっきよりはましだ。


舞の手が、カードの束に触れる。

震えが残っている。指先が痺れているみたいに動きがぎこちない。

舞は一枚抜こうとして、うまく抜けない。

紙がぺらっと滑る。


私は触らない。

触る前に合図。

今は舞が選ぶ。


舞がやっと一枚抜いた。

小さな動き。

でも“自分で選ぶ”動き。


舞がカードを掲げる。


「今は、触らないで」


遅かったカード。

でも遅くない。今ここで出せたから。

舞の境界線が戻ってきたから。


舞は次にスマホを出す。

画面を開く手が震える。

打つ速度が遅い。

それでも、一文字ずつ出てくる。


『さわる』

『こわい』


私は喉の奥が熱くなる。

ごめん、ありがとう、が出そうになる。

でも今それを言うと、舞の“手続き”を壊す。


私は代わりにカードを出した。


「今は、受け取った」


舞の目がカードを見る。

それから、ほんの少しだけ肩が下がる。


踊り場の上から、誰かの足音が降りてくる。

舞がびくっとして、耳を塞ぎ直す。


私は身体を少しずらして、舞の視界から足音の方向を隠す。

隠すというより、壁になる。

舞が“柱を見る目”をする相手を、私が引き受ける。


足音の人は通り過ぎるだけだった。

階段の音が遠ざかる。


舞の呼吸がまた少し戻る。

透明マスクの内側が曇るのがゆっくりになった。


私は床に落ちていた舞のカードを思い出した。

さっき拾えなかった紙。

廊下にまだ落ちている。


でも今、拾いに戻れない。

舞が落ち着く方が先だ。


舞がスマホに、もう一行打つ。


『あなた』

『さけんだ』


私は頷く。

否定しない。言い訳しない。


「叫んだ」


舞が画面を見て、少しだけ目を細める。

それは怒りじゃない。確認だ。


『こわかった?』


舞の質問は、私の心配じゃない。

事実確認だ。

私の動きが、次も使えるかどうかの。


私は答えた。


「怖かった」

「悪者になったと思った」


舞の目が、私の口元に一秒だけ寄る。

透明マスク越しに、唇の動きを読む。


私は続ける。


「でも、後悔はない」

「舞が嫌がってるって、言えた」


舞はしばらく無のまま私を見ていた。

柱を見る目じゃない。

人を見る目。


舞はカードを一枚出した。


「今は、よし」


よし。

それだけで胸が詰まる。


舞が次にカードを出す。


「触る前に合図」


私は頷く。


「うん」


そして、私は自分のカードも出した。


「今は、守る」


舞はそのカードを見て、頷く。

頷きが、ちゃんと深い。


踊り場の空気は冷たい。

でもさっきの廊下よりは静かだ。

舞の耳を塞ぐ指が、少しだけ離れたままになる。


私は舞の視界に、断る文章のメモを見せた。

スマホのメモじゃなく、紙に書いたやつ。


「これ、使う」

「次は叫ばなくても、止める」


舞は目を動かして読む。

読む速度が遅い。

でも読み終えて、頷く。


舞のスマホに文字が出る。


『あなたが』

『壁になる』


壁。

舞が昨日描いた言葉。

笑顔は壁。

でも今日は、壁は悪いものじゃない。


私は息を吸って、吐いた。


「うん」

「舞の壁になる」


舞はしばらく黙っていた。

それから、スマホに短く打つ。


『ありがとう』


私は胸がぎゅっとなる。

ありがとうを返したくなる。

でも返すのが癖になると、また舞の手続きを曖昧にする。


私はカードで返した。


「今は、受け取った」


舞の口元が、ほんの少しだけ動いた。

笑いじゃない。

でも無でもない。


舞はもう一枚カードを出した。


「戻る」


教室に戻るか、寮に戻るか。

舞は選び直す。

壊れかけた後で、選び直す。


私は聞く代わりに、カードを二枚出した。


「今は、教室」

「今は、帰る」


舞は少しだけ迷ってから、「帰る」の方に指を置いた。


選んだ。

自分で。


私たちは階段を降りて、遠回りで寮へ向かった。

学生課の前は通らない。掲示板の色も避ける。


歩きながら、スマホが震えた。

金井さんからだ。


『ごめんね!びっくりした!』

『私、嫌がらせのつもりじゃないよ?』

『また話そ!』


画面の文字は明るい。

絵文字がついている。

笑顔が、そのまま文字になっている。


私は歩きながら、メモにした断る文章を開いた。

そして送った。


『参考にしたい気持ちは分かります。』

『ですが、本人の同意がない共有や接触はできません。』

『今後も同意がない場合はお断りします。』


送信すると、胸の奥が少しだけ痛む。

悪者の痛みだ。

でも、その痛みは今日の勲章みたいに静かだった。


舞は隣で、壁側を歩く。

耳を塞いでいない。

でも指はいつでも塞げる位置にある。


私の透明マスクの内側で、息が白く曇る。

舞の目が私の口元を見る。

そして小さく頷く。


外のページはうるさい。

笑顔は壁として立っている。


でも今日は、私も壁になれた。

舞のカードが床に落ちても、舞の境界線が崩れても、戻ってこれた。


悪者になった。

でも後悔はない。


その事実だけが、歩く足音より確かな重さで、私の中に残っていた。

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