第2話
その日も、特別なことは何もなかった。
いつもと同じ時間に家を出て、シャツにスラックスという事務職らしい格好で、いつもと同じ電車に乗り会社へ向かう。仕事は淡々と進み、大きなトラブルもなく、誰かと深く話すこともない。
気づけば夕方になっていた。
そろそろ帰る時間だな、と思いながらデスクの上を片付け始めたとき、後ろから声をかけられる。
「悪いんだけど、これ今日中にお願いできる?」
差し出された資料は、それなりの量があった。
一瞬だけ迷ってから、断る理由も思いつかず、わかりました、と答える。
周りの席が少しずつ空いていく中で、画面に向き直る。予定していた帰宅時間は、静かに後ろへずれていった。
結局、会社を出たのは十九時を少し回った頃だった。
夜の空気は冷えていて、頭が少しだけ冴える。駅に着くと、ホームの雰囲気がいつもと違うことに気づいた。人の数も、立っている位置も、見慣れた時間帯とは微妙にずれている。
その中に、どこかで見た気がする女性がいた。
視線を向けた瞬間、懐かしさのようなものが胸に触れる。でも、思い出せない。名前も、どこで会ったのかも。
電車が来て、同じドアの前に並ぶことになった。偶然だと思いながらも、少しだけ意識してしまう。
車内に入ってから、気づかれないように、ちらりと横顔を確認しようとした。
その瞬間、女性もこちらを見るように視線を動かす。
目が合った。
気恥ずかしさに、反射的に軽く会釈をする。すると彼女が、少し戸惑ったような声で言った。
「……翔くん……?」
自分の名前だった。
え、と思わず声が漏れる。驚いて顔を見る。
見覚えはある。確かに、どこかで見た顔だ。でも、それがいつだったのか、すぐには結びつかない。
ただ、声だけが妙に懐かしかった。
その感覚に引っ張られるように、記憶が一気に遡る。
中学時代。
教室の隅にいることが多かった、物静かで目立たないクラスメイト。背中あたりまで伸びた黒髪を、緩く編んでひとつに束ねていた。
男子とはほとんど話さない。女子の中でも、決まった数人とだけ一緒にいるタイプだった。誰かが話すのを聞いて、静かに相槌を打つだけ。
そんな姿が、断片的に浮かび上がってくる。
自分自身は、彼女と話した記憶がほとんどなかった。言葉を交わしたとしても、挨拶や、必要最低限のやり取りだけだったはずだ。
それでも、声だけははっきりと覚えている。
とても柔らかくて、どこか安心するような声。
思い出した瞬間、理由もなく腑に落ちた。
彼女は中学時代、放送委員をしていた。
――宮下さん。
名字だけが、遅れて浮かぶ。下の名前までは、まだ思い出せない。
「……宮下さん」
ふと、声が漏れた。
彼女は一瞬だけ目を見開いてから、すぐに小さな笑顔を作る。
「はい」
短く、柔らかく返事をした。
「え、なんで?」
自分でも間抜けだと思う質問が、口をついて出た。
それでも彼女は、困った様子も見せずに笑顔のまま答える。
「私、いつもこの時間の電車だから」
そう言われて、一瞬だけ思考が止まった。質問と答えが噛み合っていないはずなのに、どこか成立している。そのせいで、余計に混乱する。
少し間を置いて、頭の中を落ち着かせる。
「……宮下さん、仕事帰り?」
「うん、そうだよ。翔くんも?」
「そう。今帰り。今日はちょっと遅くなったけど」
彼女の自然な調子につられて、少し馴れ馴れしく話してしまったことに、あとから気づく。
今さら距離を詰めすぎた気がして、ほんの一瞬だけ戸惑った。
でも、宮下さんは気にする様子もなく、相変わらず穏やかな表情のままだった。
「そうなんだ。仕事、忙しいんだね」
それから、少し間を置いて、嬉しそうに続ける。
「でも、良かった。こうして偶然、再会できたから」
良かった?
そう言われて、少し疑問に思いながら彼女の顔を見る。
確かに面影はある。けれど、記憶の中の彼女とは、どこか別人のようでもあった。
とても綺麗な女性に変わっている。
中学時代、印象的だった長い黒髪は、今は少し茶色に染められ、緩やかなウェーブがかかっていた。そういえば、あの頃はいつも眼鏡をかけていたはずだ。今は、かけていない。
化粧は薄く、自然で、端正な顔立ちがかえって際立っている。はっきりと、美人だと思った。
服装もおしゃれで、全体としては女性らしいのに、パンツスタイルのせいかどこか活発な印象がある。
記憶の中の、教室の隅にいた彼女とは、まるで正反対だった。
それでも。
声だけは、あの頃のままだった。
柔らかくて、静かで、耳に残る声。
それがなぜか、とても心地よかった。
「ねえ、連絡先、交換しない?」
唐突にそう言われて、思わず声が裏返る。
「えっ?」
一瞬、言葉に詰まったが、拒む理由なんてあるはずもなかった。
「あ、うん。いいよ」
そう言って、慌ててスマホを取り出す。
画面を見せ合いながら、連絡先を交換する。その間、電車の揺れがやけに大きく感じられた。
登録が終わると、宮下さんは嬉しそうに笑った。
「ありがとう」
その笑顔に、胸の奥が少しだけくすぐったくなる。
「いえ……こちらこそ」
気恥ずかしさをごまかすように、視線を外しながら答えた。
そのあと、少しだけお互いの近況を話した。
宮下さんは、地元のラジオ局で働いているらしい。なるほど、と自然に思った。あの声なら、確かに向いている。
やがて電車が減速し、停車する。ドアが開く。
三駅分の時間は、思っていたよりずっと短かった。話すには、明らかに足りない。
ドアへ向かう前に、「ここだから」と小さく手を上げて合図する。
「またね」
宮下さんがそう言った。
ドアが閉まり、振り返ると、彼女はこちらに向かって手を振っていた。
――また?
胸の中で小さく疑問符が浮かぶ。それでも、反射的に手を少し上げて応える。
いつもと変わらないホーム。いつもと同じ階段を上る。
帰りにコンビニに寄って弁当を買い、いつも通りの部屋に帰った。
いつもどおりの部屋で弁当を食べ、シャワーを浴び、寝床につく。
ただ、今日のお弁当は温かく感じた。
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