第2話:徐々に蝕まれる倫理観

 旅は続いた。


 だが、その旅路は私にとって、カイルの「死体」を踏みしめて歩く道だった。


 ​彼は、ことあるごとに死んだ。


 ある時は、村の子供を魔物の群れから無傷で救い出すために。


 ある時は、商人と交渉し、安くアイテムを手に入れるためだけに。


「正義」のためだった死は、いつしか「効率」のための死へと変わり、麻痺していった。


 ​窓から飛び降り、毒を飲み、刃を突き立てる。


 彼はその命を「コンティニュー用のコイン」程度にしか思っていない。


 ​そして、決定的な夜が訪れた。


 ​野営地での焚き火の前。


 私は限界だった。味のしないスープを地面に置き、膝を抱えてうつむいていた。


 ​「エリス、食べないのかい? これからの旅は厳しくなる。栄養を摂らないと」


 ​カイルの正論が、棘のように刺さる。


 私は顔を上げ、つい、感情を爆発させてしまった。


 ​「食べられないのよ! ……あなたが、あなたが……っ!」


 ​――ガギィッ!


 ​核心を口にしようとした瞬間、喉の奥で見えない氷の鎖が締まる。


 激痛。声帯が凍りつくような感覚。


 それでも、私は涙を流しながら、掠れた声で訴えようとした。


 ​「なんで……あんなことのために……っ! 私、あなたが……怖い、の……っ!」


 ​喉が詰まる。咳き込み、涙で視界が歪む。


「死んだ」と言えない。「時間を戻した」と言えない。


 ただ、彼が恐ろしいということだけを伝えたくて、私は過呼吸のように喘いだ。


 ​カイルは驚いたように目を見開き、私を見つめていた。


 その瞳が、悲しげに揺れる。


 ​「……ごめん」


 ​彼は眉を下げ、まるで迷子が親を探すような、心細い顔をした。


 ​「僕がまた、君を泣かせてしまったんだね」


 ​違う。そうじゃない。


 けれど、彼には私の涙が「自分の不手際の結果」としか映らない。


 彼は震える手で、私の涙を拭おうと伸ばし――そして、止めた。


 ​「やり直さなきゃ。……君が泣かない世界になるまで、何度でも」


 ​その声には、狂気的なまでの「献身」が滲んでいた。


 彼は自分の命を惜しんでいないのではない。私の笑顔と引き換えなら、自分の命など安いものだと本気で信じているのだ。


 ​カイルの手が、腰のベルトポーチに伸びた。


 取り出したのは、果物を剥くための小さなナイフ。


 ​「待っ――ちが、う……死なないで……っ!」


 ​私の静止の声は、彼の「愛」の前ではあまりに無力だった。


 ​ヒュッ。


 ​一瞬の躊躇もなかった。


 彼は私を見つめたまま、愛しい人に口づけを送るような穏やかな顔で、自分の頸動脈を切り裂いた。


 ​プシュッという音と共に、熱い液体が私の顔に降り注ぐ。


 私のために。ただ、私の機嫌を直すためだけに。


 ​――ザザッ! ピーーーーッ!


 ​激しい耳鳴り。視界が砂嵐で埋め尽くされる。


 世界が強制的に再構築される。


 ​「エリス、食べないのかい? これからの旅は厳しくなる。……でも、無理はしなくていいよ」


 ​ノイズの向こうから、甘く優しい声が聞こえた。


 視界が晴れると、そこにはカイルがいた。


 彼は私の隣に座り、スープ皿をそっと遠ざけ、私の肩を抱いている。


 ​「君が疲れているのは分かっているつもりだ。僕の配慮が足りなかったね。ごめんよ」


 ​完璧だ。


 私が怒鳴る未来を消去し、泣き叫ぶ未来を剪定し、彼は「正解」の選択肢だけを選んでここにいる。


 その顔には、一点の曇りもない慈愛が満ちていた。


 ​「君には、世界で一番幸せでいてほしいんだ」


 ​その言葉が、嘘偽りのない本心だと知っているからこそ、地獄だった。


 彼は、自分の命を何度ドブに捨ててでも、私を幸せにしようとする。


 あまりに純粋で、あまりに歪んだ献身。


 ​(……ああ、カイル)


 ​私の頬には、まだあの時の、生暖かい血の感触がへばりついている気がした。


 けれど、今の彼の温かい手が私の頬に触れた瞬間、私は彼を拒絶することができなかった。


 ​だって、この温もりは、彼が命を削って作り出したものだから。


 私が彼を拒絶すれば、彼はまた「失敗した」と思って死ぬだろう。


 私が笑わなければ、彼は永遠に自分を殺し続けるだろう。


 ​「……う、ん……ありがとう、カイル」


 ​私は引きつった笑みを浮かべ、彼に身を寄せた。


 愛している。けれど、その愛は今や、彼の死体の上に積み上げられた、呪いのような鎖だった。


 ​カイルが嬉しそうに微笑む。


 その笑顔を守るために、私は今日も、彼の死の記憶を飲み込んで、聖女の仮面を被る。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る