2.暴走する「犬」

 ごくごく常識的な価値観を持っていたオレにはなかなかハードな意識の切り替えを日々要求される毎日だ。

 それでも平和なだけマシか……神魔とのハートフルな毎日にそう思うことにする。


 しかし直後にオレは前言を撤回したい気分になった。

 前方の大通りで何かが大きく跳ね上がったのを見たからだ。電柱だろうか、それともガードレールか?

 それは暴れ馬のように首を中空にもたげてこちらへ突進してきていた。

 剛毛で目は赤く燃え、鋭い牙を持った巨大な犬のような生き物だった。


 ……危ないからちょっとよけていよう。


 その程度の認識になっている自分も大概おかしいとは思う。

 その後ろから白いコートを着た数人が追跡しているのが見えたことにはほっとする。

 あれは神魔対応特化の武装警察、特殊部隊の人たちだ。

 通称「白いおまわりさん」は同じ人間ではあるのだが、ちょこっと霊装だとか身体強化の術を受けていて動きは映画のようにダイナミックだ。

 日常の中では、緊急時に車を踏み台に移動したりする姿もよく見かける。

 絶対数は少ないが、同じ「護所局」の所属として頼もしい人たちだ。


「これ、ちょっと逃げた方がいいやつか……?」


 平和ボケした民衆はこんなものだ。さすがにスマホを向けて撮影しようとかバカなことは考えなかったが、それは車より速いスピードでこちらに向かってきていた。


 あ、やばい。


 追い越そうとした車にぶつかって勢いで斜めに進路変更をしてくるそれ。つっこんでくる……!


「うわぁぁ……!!」


 クモの子を散らすように周りにいた人たちも逃げる。あわや、目の前に迫るかと思われたその時。

 進行方向から来たのだろう、翻る白いコートが獣の正面に降り立ち、そのまま左手から背中を回るようにして巨体の右側に並ぶように陣取った。

 暴れ馬が馬首を挙げるがごとく、獣は大きく前脚で立ち上がり、再び四つ足をアスファルトに着けるともがき暴れる。その首にはちょうど片手で握れるくらいのワイヤーが一周、首輪のように絡みつけられていた。


 ギリギリとリードを取るように引っ張って動きを固定する「白いおまわりさん」。徐々に獣の動きが静かになり、やがて、うそのようにそれはおとなしくなった。


「司さん……」


 オレはその人を見て呟く。司さんはオレに気づいていたのかいなかったのか、いずれにしても視線を合わせて声をかけてきた。


「秋葉、大丈夫だったか?」


 白上 司しろうえつかささんは武装警察の一人で、よく仕事で一緒になる。

 同年代だが落ち着いていて、頼りになる人だ。

 というか、今のご時世、特殊部隊の人がいないと治安は成り立たない。たとえば今のようにだ。

 おとなしくなった獣の横で、散歩中の犬のリードを持つようなすでに緊迫感が消え去った様子にほっとする。


「大丈夫です……それ、魔獣ですよね。どうしたんですか」

「魔界の観光客のペット。うっかり逃がしてしまったらしく」


 そうなのだ。この魔獣は決して害意のある魔物モンスターではない。

 観光客の愛玩動物であり、人間でいうところのただの犬である。

 ただの犬だが、さすが魔界産。走って逃げるだけでもこれだけの被害が出る。

 司さんをはじめとする特殊部隊の人たちはあくまで警察であり治安維持要員であり、人間の警察の延長上の役割を担っていて、それでもとんでもない被害を及ぼすこういう事件をなんとかするのが仕事だ。


 本当にお疲れ様です。


「すみません! うちのコロが!!」


 コロ?

 随分とかわいらしい名前だ。すっとんできたどうみても善良な悪魔な人から放たれた小型犬を彷彿させる名前を聞いて、オレはワイヤーという名のリードにつながれた魔獣を見る。

 その魔獣は興奮すると巨大化するのか、今は北極狼くらいの大きさになっていた。

 その頃には後方から追っていた白いおまわりさん二人が合流している。


「被害状況は?」


 前方から駆け付けた司さんが尋ねると二人は「ガードレール二本と街路樹一本」となんでもないように答えた。


「困ります。しっかりリードを握っていてもらわないと」

「申し訳ない。コンビニに入るのに白い横板の柱に括り付けて置いたら、それごといなくなっていて」


 それがガードレールな。オレは察した。司さんの同僚と思しき人たちも会話に加わってくる。


「ガードレールじゃ引っこ抜かれるからせめて電柱にしてもらわないと」

「そもそもサイズが変わるタイプの魔獣の同伴は許可制だけど申請は?」

「パスポート拝見させてください」


 司さんが必要最低限の言動で魔界の人に対応している。


「許可はもらってるんですが、もう出国の時間がすぐで……見逃してもらえませんか?」

「見逃すことはさすがに難しいです」

「ではこれで」


 その悪魔は司さんの手を取ると、白い手袋グローブにそっと金塊を握らせた。


「………………」


 オレ、金塊って初めて見た。さすがにこのパターンは初めてだったのか、司さんも黙してしまっている。


「……損害承諾と受領にサインが必要なので、お願いします」


 ……何事もないように進めた。

 これはワイロではない。損害賠償のやり取りなのだ。

 ものすごくざっくりしているが、そもそも貴族レベルになると金銭感覚がおかしいので賠償金そのものはあまりあるものが出てくる。

 被害額100万円に対して時価300万円くらいのものを出してきたりするので日本の国庫は現在、すさまじく潤っていた。

 今のはどう見ても500グラムはかたいから、一千万くらいになるんじゃなかろうか。


「本当に申し訳ない。助かります」


 悪魔は礼儀正しく頭を下げて、犬のリードを受け取ると去っていった。

 もうオレの目から見てもあれは何の害もないただの犬だ。


「異文化コミュニケーション極まれりですね」

「柔軟な対応ができるのはありがたいが、せめて金貨くらいにしておいてほしい」


 内心、動揺したようにも見えない司さんはため息をついて後方から追ってきた同僚に金塊や書類を預けて少し一緒に歩きだす。


「巡回中ですか」

「あぁ、今日は今のが一番大きい騒ぎだから、何もない方かな」


 午後の日差しが肩を温める時間、上空には青空が広がっている。

 日本という国は、今日も平和だった。

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