忌み子アシュベル - 蟲と屍に築く玉座 -

白蛇

プロローグ 憎悪の凱旋

 黄昏が天蓋を朱に浸し、世界が夜の帷へ沈みゆく刻限。王都サルヴァティオを囲繞する石造りの城郭は、死を予感する無数の兵卒たちの熱気で蒸れていた。

 林立する槍の切っ先は持ち主の恐れを伝播してさざ波のように震え、盾を握る籠手の内は冷ややかな脂汗に濡れそぼっている。古びた鉄錆と油、そして人が獣として発する恐怖の臭気が混濁し、城壁の上には肺腑を圧するほどの重苦しい大気が澱んでいた。

 その空気は濡れた布のように粘膜へ張り付き、呼吸さえも奪っていく。夕陽に灼かれた城壁は、まるで巨大な生物の臓腑のように脈打ち、風の唸りがその表皮を撫でては、悪寒となって隅々まで走り抜けた。


「……来るぞ」

 守備長が呻くように零した。その言葉は渇いた風にさらわれ、兵たちの背筋へ目に見えぬ氷柱を突き立てた。誰もが、その先にある言葉——絶望の名を口にすることを怖れていた。


 地平の彼方、稜線が夜闇に溶ける境界から、漆黒の濁流が押し寄せていた。

 初めは野火の煙かと疑われたそれは、風に散ることなく凝縮し、生き物のような意志を持って大地を貪り喰らっていく。翅が擦れ合う微細な震動は、数億の重なりとなって大気をどよめかせ、兵たちの胸腔を内側から激しく叩いた。

 それは風に逆らい、波打つ臓物のように這い寄る。土の匂いは焼け焦げた草の香と混じり、やがて口内には鉄の味が——血の予感が満ちていった。


 兵たちは互いの蒼白な面を盗み見て、乾ききった唇を舐める。喉は痙攣しながらも声を拒み、辛うじて響くのは浅い嚥下の音ばかり。

 その黒い奔流のただ中、一際巨大な異形の影に跨がる、一人の少女がいた。


 痩躯に血と汚泥を吸った衣を纏い、白磁めいた貌には薄い笑みが貼り付いている。それは泣き顔の皺だけを残したかのような笑みであり、口端は僅かに引きつり、痛ましさと幼さが同居していた。

 少女はゆっくりと瞼を開く。その瞳は、奈落の底に放たれた一筋の燐光のように、底のない昏い輝きを宿していた。

 風が髪を弄ぶ度、泥に汚れた裾が少女の肩を擦る。それはまるで、その身にこびり付いた人としての苦しみを、一つずつ振り落とす仕草のようにも見えた。


 その深淵の底に、微かな花の甘さが紛れ込んでいた。

 腐臭と鉄錆と糞尿の只中にあって、場違いなほどに芳醇な蜜の香りが漂い、兵士たちの鼻腔へ甘やかな不安を引き寄せる。誰もがその異質な香りに気付かぬふりをした。


「忌み子だ……」

 誰かの呟きが呪詛となって伝播し、城郭全体が沈黙の海に呑み込まれる。

 祈りの言葉を飲み込んだ兵の瞳は、黒い波を見つめたまま恐怖に縫い止められていた。剣の柄に手をかけながらも、指は凍りついたように動かない。

 鼓膜を犯す翅音は、いつしか兵士自身の心音と重なり合い、内なる原初の恐怖を呼び覚ます。己の鼓動か、虫の翅音か。その境界さえも曖昧に溶けていく。


 城壁の直下で影は蠢き、腐り落ちたもの、名も無きもの、かつて息をしていたものの残骸が、少女の足許へ傅くように集う。それらは波となって跪き、一つの暗黒の海を形成した。翅のざわめきは夜風のように膨張し、遠く王都の鐘楼が鳴らす晩鐘さえも掻き消していく。

 少女は小首を傾げ、その轟音に耳を澄ませた。そして、桜貝のような唇がゆっくりと開く。


「やっと……見つけた。ねえ、みんな——おうちへ帰ろぅ?」


 その無垢な囁きは雷鳴の如く大地を駆け、黒い海が決壊した。

 影の奔流が白壁へ殺到し、その勢いは暴風となって城壁を食らい始める。


「近寄らせるな! 民を守れ!」

「火矢を放てッ!」

 絶叫と祈りが交錯する。幼子を抱き竦める母、石畳に額を擦り付ける老人。矢を番える若者の指は震え、聖印を描く兵の爪先は逃げ場を探す。

 夜空には火矢が放物線を描き、燃えた藁の匂いが火の粉と共に降り注いだ。

 だが、夕陽の残光すら呑み込みながら、黒い海は城郭を覆い尽くしていく。すべての影が、たった一つの、幼い女王の声に従って——。

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