第10話 「冬の甘塩」
12月の風は、まだ冬の厳しさを帯びていた。山科の町は、義士まつりの旗が風に揺れ、人々の笑い声や祭囃子が軒先に反響している。寒さに震える指先を、僕はポケットの中で擦りながら、家路を急いでいた。今日は妻に、ちょっと特別なものを贈ろうと思っていたのだ。
小さな紙袋を抱え、玄関の鍵を開ける。家の中には、まだ暖房の残り香と、前夜に仕込んだ味噌汁の匂いが漂っていた。扉を開けると、妻がキッチンで手を動かしている。湯気の向こうに見える笑顔は、いつもと変わらず穏やかで、でも今日はどこか柔らかく光っているように見えた。
「ただいま……」
「おかえり。寒かったでしょ?」
手を洗う間も惜しんで、僕は紙袋を差し出した。
「ちょっと、これ……」
妻が袋を開け、中から赤穂の甘塩を取り出す。白く輝く塩の結晶が、袋越しにも細かく光を反射していた。彼女の目が一瞬、大きく見開かれる。
「……赤穂の甘塩? どうして?」
「今日は、赤穂浪士討ち入りの日だって知ってた? 山科義士まつりもあるし、それに……いつもおいしいおにぎりを作ってくれるから、ちょっと特別な塩をと思って」
塩の香りを鼻に近づけ、妻は小さく息を吸った。微かに海の香りが混ざる、温かみのある匂い。冬の澄んだ空気に似合う、清らかな香りだった。
「ありがとう……こんなに気を使ってくれて」
「だって、毎日あの握り飯を食べてると、もっと美味しくしてあげたくなるんだよ。塩がいいと、具材の旨味も引き立つし、もちろん、梅干し作りにもぴったりなんだってさ」
妻は袋の中の塩を手のひらにすくい、小さな山を作るように眺める。その指先でつまんだ塩は、粉雪のようにさらさらとしていて、少し湿った感触が手のひらに伝わった。
「ふふ……わかる、これならおにぎりのご飯も、もっとふっくらして、味が引き締まるね」
「うん。だから、今日は君のおにぎりに、この塩を使ってみてほしい」
彼女は台所に歩み寄り、すぐにご飯を炊き始めた。炊きたての湯気が立ち上るたび、塩の香りと混ざり合って、空気がほんの少し甘く、心地よくなった。手際よくおにぎりを握る指先の動きに、僕は見惚れる。形は不格好でも、その一つひとつに、愛情がぎゅっと詰まっているのがわかる。
「ねえ……」妻が小さな声でつぶやく。
「なあに?」
「なんだか、冬の寒さも、今日の祭りの喧騒も、全部ここに閉じ込めたみたいに感じる……」
塩の結晶が、ご飯に溶け込み、甘みとコクが舌に広がる。噛むごとに、炊きたての米の香りと、海の香りが口の中で混ざり合った。自然と顔がほころび、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「ねえ、知ってる? 赤穂の塩は、にがりが豊富だから、体にもいいんだって」
「うん、知ってる。だから、今日のは特別なのね」
彼女の笑顔を見ていると、寒い冬の午後も、雪混じりの風も、すべてが穏やかに感じられた。僕は手を伸ばし、おにぎりを一つ受け取る。温かく、でも程よく引き締まったその握り飯は、塩の力と、彼女の手のぬくもりを両方伝えてくれた。
「……本当に、美味しい。ありがとう」
「いや、こちらこそ。毎日ありがとう、って言いたくて」
「ふふ、そうね。毎日、食べてもらえる幸せを感じてる」
窓の外では、祭りの音が遠くに小さく響いている。寒風が街を駆け抜け、灰色の冬空が少しずつ暮れていく。室内には、炊きたてご飯の香り、塩の甘み、そして二人の小さな笑い声が満ちていた。
「そういえば、山科義士まつりって、赤穂浪士討ち入りの日に合わせてるんだってね」
「そうなの。忠義と義の心を称えるお祭りなのね」
「……今日、この塩で握ったおにぎりも、忠義や感謝の気持ちを伝える、ちょっとした儀式みたいなもんだな」
彼女は微かに目を細め、にっこりと笑った。僕はその笑顔に胸が熱くなり、思わずそっと彼女の手を握る。塩の味と香りが、指先を通して、心の奥まで染み込んでいくようだった。
「ねえ、これからも、毎日おにぎりを作らせてね」
「もちろん。君が笑ってくれるなら、どんな冬も乗り越えられる」
小さな台所で交わされた言葉は、冬の冷たさを忘れさせる温かさを持っていた。塩の結晶一粒一粒が、愛情の証として口の中で溶け、祭りの喧騒も、冷たい風も、二人の間に生まれた温もりに溶けていく。
「ありがとう、今日も……本当に」
「いや、こちらこそ。君の笑顔こそ、僕の塩の味だ」
夕暮れの光が差し込み、赤褐色に染まる室内で、僕たちは手を取り合い、静かにおにぎりを頬張った。冬の寒さの中に、確かな温もりと、互いへの感謝が、ゆっくりと満ちていったのだった。
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