第8話:最後の晩餐(おにぎり編)

第8話:最後の晩餐(おにぎり編)


夕暮れの光がリビングの窓をオレンジ色に染める。

テーブルの上には、妻が丁寧に並べたおにぎりたち。俵型、三角形、手のひらにすっぽり収まる小さなものまで、まるでそれぞれが小さな物語を宿しているかのように輝いている。


「…全部、私が握ったの?」僕は息を呑む。

米の湯気がほのかに立ち、海苔の香ばしさと、塩のやさしい匂いが鼻をくすぐる。手に取ると、まだ温かく、ふわっと柔らかい。指先に伝わる熱が、胸の奥にじんわり染みる。


「そうよ。全部。最後の夜だから、特別にいくつも握ったの」妻は微笑む。髪の束が肩にかかり、夕陽に透けて金色に光っている。その笑顔に、僕は自然と目を細めた。


「最後の夜…って、どういうこと?」僕の声が震える。胸の奥のざわめきが、米粒ひとつひとつの温かさでさらに膨らむ。


「転生のルールよ。明日から、私は次の世界へ行く。だから今夜が、あなたと過ごせる最後の晩餐」妻の手がテーブルを撫で、おにぎりをそっと指先で整える。その動作の一つひとつに、愛情と覚悟が宿っている。


「…わかってるけど、やっぱり悲しいな」僕は俵型のおにぎりを手に取り、軽く匂いを嗅ぐ。米の甘い香り、焼き海苔の香ばしさ、塩味の粒が、すべて僕の胸を刺激する。頬にじんわり涙が浮かぶ。


「悲しいのは私も同じ。だけどね、最後だから、思いっきり笑って食べてほしいの」妻は小さく手を叩き、目を細めた。その瞬間、笑いと涙が混ざった表情に、僕の心は締め付けられる。


「わかった…じゃあ、いただきます」僕はおにぎりを口に運ぶ。

米の甘みが舌に広がり、海苔の香ばしさが鼻を抜け、塩味が喉を潤す。たった一口で、世界が少しだけ明るくなるような感覚があった。温かさと愛情が、体中にじんわり染み込む。


「…どう?特別に握った甲斐あった?」妻が笑顔で訊く。

「…うん、すごくおいしい…なんでこんなに、毎回感動するんだろう」僕は唇を拭いながら言った。目の奥に涙をためて、でも笑顔を作る。温かい米粒と海苔の香りが、心の奥まで届く。


「それはね、愛が入ってるからよ」妻は俵型のおにぎりを僕に差し出す。指先に触れる温かさが、僕の胸をさらに押す。


「愛…か。なるほど。君の愛が米粒一つ一つに宿ってるんだな」僕は笑いながら口に入れる。噛むたびに、甘みと塩味、海苔の香ばしさが交じり合い、心の奥に小さな光を灯す。


「そうよ。だから、全部味わって。最後の夜なんだから、楽しんでほしいの」妻は俵型の次に三角形のおにぎりを手に取る。小さな手の動きに、何百回も握り続けてきた経験の深みが漂う。僕はその手の動きに、目が離せなかった。


「…ねえ、聞いてもいい?」僕は少し勇気を出して訊いた。

「うん、何でも」妻の瞳が真っ直ぐ僕を見つめる。光の中で、微かに金色に輝いている。


「どうして僕と、こんな平凡な日常を共有してくれたの?僕なんて、米の産地とか塩の種類とか、ほとんど興味なかったのに」僕は俵型のおにぎりを口に運びながら呟いた。温かい米粒が喉を通り、胸の奥がぎゅっとなる。


「だって…あなたの『おいしい』って言葉が、私には最高の喜びだったから」妻は小さく笑う。その笑顔に、胸が熱くなる。香ばしい海苔の匂いが鼻をくすぐり、塩味が涙の味と混ざって少しだけ苦い。


「…そうか。なら、僕の平凡さも、少しは役に立ったのかな」僕は小さく笑った。温かいおにぎりをかじるたびに、妻の手の温かさ、笑顔、そして愛情が、体中に染み渡る。


「もちろんよ。あなたと過ごした日々は、私にとっても宝物だった」妻の手がそっと僕の手を包む。米粒の熱が指先を伝い、胸の奥に小さな安心感を灯す。


「…ありがとう」僕は小さな声で言った。おにぎりをかじりながら、涙が頬を伝う。甘みと塩味と香ばしさが、涙と混ざり、なんとも言えない幸福感を生む。


「さあ、次はこれね」妻はおにぎりを僕の前に置く。ひとつひとつに込められた彼女の思いが、手のひらに、口の中に、胸に伝わる。まるで、おにぎりの一粒一粒が愛の言葉になっているようだ。


「…全部、食べてしまうのがもったいないな」僕は俵型のおにぎりを見つめる。温かさ、香り、味、そして何よりも妻の思いが、口に入れるのが惜しいほど愛おしい。


「でも、食べないと意味がないでしょう?」妻は笑う。声が柔らかく、米粒の甘さに溶け込むようだ。

「…そうか。じゃあ、いただきます」僕は俵型を口に運ぶ。咀嚼するたびに、愛情と日常と、少しの切なさが胸に広がる。


夜は深く、リビングにはおにぎりの温かさと、僕たち二人の呼吸だけが響いていた。笑い声も、涙も、混ざり合い、世界で一番小さな奇跡のような時間が、ゆっくりと流れる。


「…最後の夜だけど、幸せだな」僕は小さく呟く。温かい米粒が喉を通り、胸の奥に優しい余韻を残す。


「私もよ。あなたと一緒に食べるおにぎりが、最高に幸せ」妻は笑う。その笑顔に、胸の奥の不安も、切なさも、全部溶けていく。


おにぎりの一つひとつに込められた愛と日常の記憶。それを食べるたびに、僕たちは互いの存在を再確認する。笑いと涙が混ざった最後の晩餐は、まるで命を抱きしめるように、温かく、甘く、そして少し苦い。


夜の帳が深くなり、僕は最後のおにぎりを口に運ぶ。米の甘さ、海苔の香ばしさ、塩の微かな粒。すべてが、彼女の思いそのものだった。


「…ありがとう、妻よ」僕は小さくつぶやく。心の奥に、永遠に残る味と記憶を抱きしめながら。


「さあ、明日からも、あなたのことを想いながら握り続けるわ」妻の声が、温かく、柔らかく、胸に染み込む。


そして僕たちは、静かに笑い、食べ、最後の晩餐を終えた。おにぎりと愛の香りが、リビングいっぱいに漂っている。


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