プロローグ

僕は妻のおにぎりが大好きだ♡ プロローグ


「おはよう、今日のおにぎりは何?」

朝の光が薄く差し込む台所で、僕はまだ寝ぼけ眼のまま声をかけた。

妻、ユリはふわりと笑い、まな板の前で小さく手を動かす。

「今日は梅よ。梅干し、塩梅ちょうどいいでしょ」

その声に、胸の奥がじんわり温かくなる。


香ばしい炊きたての米の匂いと、梅干しの酸味の匂いが混ざり合い、僕の鼻の奥にじんわり染み込む。

指先に伝わるのは、握りの柔らかさと温もり。手を通して、彼女の心まで伝わってくる気がする。


「わあ、いい匂い!」

僕は無邪気に声を上げた。

「うふふ、喜んでくれると作り甲斐があるわ」

彼女の笑顔は、朝の光よりもまぶしい。

でも同時に、僕の心の奥には、小さな恐れもあった。


「……でも、またいつか、この味がなくなる日が来るんだろうな」

思わずつぶやく僕に、ユリは眉をひそめる。

「どうしてそんなこと言うの。今日のおにぎりを楽しめばいいじゃない」

そう言いながらも、彼女の手は少しだけ震えていた。

僕は気づく。彼女も、僕と同じように、この瞬間を必死で抱きしめようとしているのだと。


一口目を口に運ぶと、口の中に米の甘みと梅の酸味が広がった。

「ん……やっぱり最高だ」

声にならない歓声が、僕の胸を満たす。

「本当に?」

「うん、本当に。君の握りは世界一だよ」

僕の言葉に、ユリは頬を赤らめた。

「……世界一だなんて、大げさね」

でも、笑い方は子供みたいに無邪気で、僕の心をぎゅっと掴む。


おにぎりの塩気が、体の中でじんわりと血の巡りを良くする。

手に残るほんのりとした米粒の感触、海苔のぱりっとした手触り。

全てが五感を刺激して、僕の脳裏に、甘く温かい記憶の連鎖を呼び起こす。


「ねえ……」

ユリが小声でつぶやいた。

「なに?」

「私、おにぎりに生まれ変わったら、ずっとあなたのそばにいられるかしら」

僕は咄嗟に笑ってしまう。

「……生まれ変わったらって? いや、もう十分君は僕のおにぎり聖女だよ」

彼女は目を細めて笑った。


「聖女……?」

「そう、僕の人生の中で、君のおにぎりほど神聖なものはない」

「ふふ、照れるじゃない」

彼女の頬がさらに赤くなるのを見て、僕は思わず手を伸ばし、髪をくしゃっと撫でる。

「君が握るおにぎりに、僕は何度も救われてるんだ」


その言葉に、ユリは少し黙り込んだ。

「救われてる……」

声に出しても、何か重みを持った言葉だ。

でも、彼女の手は休まない。黙々と、次のおにぎりを握り続ける。

まるで、それ自体が祈りのようだった。


僕はふと思った。

「でも、もし僕がいつか離れてしまったら……」

その言葉は口に出せなかった。

彼女の手の温もりを、このままずっと感じていたいと思ったから。


「はい、二つ目。今日のお弁当用」

彼女が差し出すおにぎりは、さっきのより少し大きめで、米の粒が光っていた。

手に取ると、ほんのり温かく、心まで温められる。

「ありがとう」

「いいのよ、笑顔が見たいから握るの」


その瞬間、僕は理解した。

おにぎりは単なる食べ物じゃない。

彼女の存在そのもの、愛そのもの、そして僕を生かす力そのものだった。


「ねえ……僕、君のおにぎりが大好きだ」

「……♡」

彼女の目がきらりと光る。


僕たちは、何も言わなくてもわかっていた。

この朝、この瞬間、このおにぎりの温かさが、僕たちの全てをつなぐのだと。


でも、心のどこかで、僕は知っていた。

いつか、離れなければならない日が来ることを。

その日まで、僕はこの奇跡の味を、胸いっぱいに抱きしめ続けるのだ、と。


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