残響の境界

@nijima0729

第1話

## 第一話


### ――知らないままで、いられたなら


帰り道は、いつもと同じだった。


コンビニの白い光。

高架を走る電車の音。

夜風が、少しだけ冷たい。


違ったのは――

**声**だけだ。


「……たす、けて……」


聞き間違いだと思った。

こんな時間、この場所で。


それでも、足が止まる。


高架下の暗がり。

誰もいない。

なのに、確かに聞こえる。


「……ここ……」


胸の奥が、嫌な音を立てた。


影が、動いた。


人の形に似ている。

だが、はっきりと違う。


輪郭が揺れ、

地面に影を落とさない。


近づくほど、

空気が重くなる。


「……なに、これ……」


逃げろ、と頭は言っている。

それでも、体が前に出た。


影の中心から、

震える声が漏れる。


「……こわい……」


それは、

**人の声**だった。


次の瞬間、

影がこちらを向いた。


視界が暗く沈む。

呼吸が、浅くなる。


本能的に、腕を上げた。


「来るな……!」


――その時。


胸の奥が、熱を持った。


理由はわからない。

ただ、触れてはいけないものに

触れてしまった感覚。


恐怖。

後悔。

押し殺された感情。


知らないはずの記憶が、

一気に流れ込む。


「……っ!」


膝が、崩れそうになる


「下がれ」


低く、落ち着いた声。


気づくと、

いつの間にか、

人が立っていた。


黒い制服。

鋭い目。


「一般人か……」


その人は、こちらを一瞬だけ見て、

すぐ影へ視線を戻す。


「近づくな。

これは――」


影が、暴れた。


空気が裂ける。


「……ちっ」


その人は、静かに舌打ちする。


「遅い」


そう言って、一歩前へ。


手を構える。

無駄な動きがない。


「……聞こえてるか」


影に向かって、言った。


「もう限界だ」


その言葉に、

影が、びくりと震えた。


「……やだ……」


「わかってる」


感情のない声。

でも、突き放してはいない。


「だが、放っておけない」


その人が動いた。


派手な光はない。

ただ、空気が一瞬、沈む。


影が、引き裂かれるように

崩れていく。


その中で、

かすかな声が聞こえた。


「……ありがとう……」


そして、静寂。


その人は、息を整え、

こちらを振り返る。


「怪我は」


「……え……?」


「怪我」


短い問い。


「……だ、大丈夫です……」


自分の声が、震えているのがわかった。


その人は、少しだけ眉をひそめた。


「……見えたな」


「聞こえたし、触れた」


「最悪だ」


遅れて、スーツ姿の大人が現れる。


「やっぱりか」


その人は、淡々と言った。


「完全に、巻き込みました」


「記憶処理は――」


「無理です」


即答だった。


「もう、境界を越えてる」


スーツの男が、こちらを見る。


「……説明が必要だな」


その人が、こちらに向き直る。


「今、見たもの」


一拍置いて。


「**残響**」


「……ざん、きょう?」


「人の感情が、

溜まりきって壊れたものだ」


淡々と、事実だけを告げる。


「俺たちは、それを処理する側」


「君は、本来、関係ない」


「でも――」


視線が、真っ直ぐ刺さる。


「関わってしまった」


遠くで、電車の音。


いつもの帰り道。

いつもの夜。


なのに、

世界が、裏返った感覚がした。


「……さっきの」


震える声で、聞いた。


「助けられたんですか」


その人は、少し考えてから答えた。


「救われた、とは言えない」


「だが」


「一人で終わらせずに済んだ」


その言葉が、胸に残る。


知らないままで、

いられたなら。


そう思った。


――それでも。


あの声を、

無かったことにはできなかった。


その人は、背を向けて言った。


「選択肢は、二つある」


「全部忘れて、帰るか」


一拍。


「それとも――」


振り返らずに、続ける。


「この世界に、足を踏み入れるか」


夜の底で、

また一つ、感情が軋む音がした

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