創作ギリシャ神話
@mai5000jp
第1話 ポインセチア
冬の冷たい空気がオリュンポスの山腹を包み込んでいた。澄み切った夜空に星々が瞬き、遠くの海は月光を反射して銀色の波を立てる。アフロディーテは、凍てつく風に巻かれながら庭園を歩いていた。赤い花弁が雪の白さに映えるポインセチアの前で、彼女は立ち止まった。
「この花……こんなにも燃えるように美しいなんて……。」
彼女の指先がそっと花弁に触れると、柔らかい感触とともに、冬の冷たさが肌に伝わった。鼻腔に流れ込む、かすかな甘い香りに胸がざわつく。
「まるで、炎が氷を溶かすみたい……。」
そのとき、ヘルメスが小走りで駆け寄ってきた。
「アフロディーテ、また独りで何を考えているんだ。風邪でもひいたら、神々の間で笑いものだぞ。」
「ヘルメス、ちょっと見て。ほら、この花……赤いの。まるで心が燃えているみたいで、見ているだけで胸が痛くなるの。」
ヘルメスは肩越しに視線を落とす。
「……ああ、これか。ポインセチアな。人間界じゃクリスマスの頃に飾られるって話だな。でも、神々の世界で見ると、随分と妖艶に見えるものだ。」
アフロディーテは花を抱き寄せ、目を閉じた。風に乗って雪の匂いと土の匂いが混じり、記憶の奥底をくすぐる。
「ねえ、ヘルメス。もし、愛する者にこの花を手渡せたら……きっと、心が通じる気がする。」
「……お前って、やっぱり人間の感覚に似ているな。」
ヘルメスの声には、微かな笑いが混じっていたが、彼女の手に触れる花の赤は、まるで本物の心臓の鼓動のように揺らいで見えた。
その瞬間、冷たい風が強く吹き抜け、花びらの端が白い雪とともに舞い上がった。
「わっ……!」アフロディーテは思わず両手で花を抱え込む。
「大丈夫か?」ヘルメスが手を差し伸べる。
「ええ、でも……この花、まるで自分の気持ちまで運んでいきそうで……怖い。」
ヘルメスは少し考えてから、口を開いた。
「怖い? それは、花が愛の象徴だからだろう。お前は愛を怖れているのか?」
アフロディーテは視線を落とし、静かに息を吐いた。
「怖い……というより、愛の痛みを感じたくないだけ。けれど……この赤を見ると、どうしても胸が熱くなるの。」
風が止み、雪の音だけが静かに響いた。アフロディーテはポインセチアの花を握り締めながら、静かに囁く。
「ねえ、私の心、誰かに届くのかな……。」
ヘルメスは少し間を置き、口角を上げた。
「届くさ。お前の心は、いつも熱い。届かないわけがない。」
二人の間に一瞬の静寂が流れ、やがてアフロディーテの頬に雪が触れた。冷たく、しかし甘く、彼女はその感覚に息を呑む。
「ねえ、ヘルメス……あなたは、誰かを愛している?」
「俺か?」ヘルメスは肩をすくめる。「いや、俺は愛を運ぶ者だ。愛するのはお前たちだろう。」
アフロディーテは微笑む。その唇がかすかに震えた。
「愛を運ぶ者……それでも、あなたの心は孤独じゃないの?」
「孤独は……愛を運ぶ宿命みたいなもんだ。」ヘルメスの瞳が夜空に溶け込む。
「それなら……私はこの花のように、誰かに届けたい。私の胸の奥の熱を。」
アフロディーテはポインセチアをそっと差し出す。その赤は、冷たい冬空に映え、まるで小さな太陽のように輝いていた。
「もし、あなたが愛を運ぶのなら……この花を、誰かに届けて。」
ヘルメスは花を受け取り、指先でそっと撫でた。
「わかった……お前の心も、一緒に届けてやる。」
夜空の星々が瞬き、山腹の雪が静かに光る。赤い花が二人の間で揺れ、寒さと温かさが交錯した。アフロディーテは深呼吸し、風に舞う雪と花の香りを胸いっぱいに吸い込む。
「……ありがとう、ヘルメス。」
「礼なんていいさ。お前が花のように、人を愛する限り、俺はどこにでも飛んでいく。」
アフロディーテの心は、ポインセチアの赤に触れ、初めて凍てつく冬を忘れた。胸の奥で、熱く小さな炎が灯る。
冬の夜、冷たい風と雪の匂いの中で、赤い花が二人を優しく包み込む。その瞬間、愛の痛みも孤独も、すべてが温かさに変わった。
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