第12話 最恐の魔王(シスコン兄)と戦慄の招待状

 ——カツ、カツ、カツ。


 静寂を破り、重厚な足音が近づいてきた。

顔を上げると、自動ドアの向こうから、一人の男が現れた。


 身長は190センチ近くはあるだろうか。  黒いピチピチのTシャツの上に、前が閉まらないジャケット。顔には黒いサングラス。  服の上からでも分かる、隆起した大胸筋と太い腕。どう見てもその筋(ヤクザ系)の人だ。


「……ひよりと一緒にいたのはお前か?」


 男は僕の前に仁王立ちし、低い声で言った。  圧倒的な威圧感に蛇に睨まれた蛙のように、僕は萎縮した。


「は、はい。同僚の春川です……」

「ふーん」


 男はサングラスを外すと、意外にも端正な顔立ちが現れた。だが、目は笑っていない。


 僕を頭からつま先までジロジロと値踏みし、呆れたように鼻を鳴らした。


「広背筋が薄いな」

「は?」


「姿勢も悪い。猫背で巻き肩。典型的な運動不足。お前、本当は同僚じゃなくて彼氏なんだろ?そんな弱っちい身体で、いざって時、どうすんだよ?」


 図星だった。ジムに通い始めたとはいえ、まだ数回。僕の身体は貧弱なままだ。男は僕の肩に、岩のような手を置いた。ギリリ、と万力のような力が込められる。


(ぐっ……ほ、いたた……ッ!?)

 骨が悲鳴を上げる音が聞こえた気がした。


​ 彼はパッと手を離すと、威嚇するように指をボキボキと鳴らした。

 僕は縮みあがり、言葉を失った。


 その時、看護師さんが声をかけた。


「白石さん、目が覚めましたよ」

 その声を聞くや否や、男は僕を押しのけ、病室へ飛び込んだ。 僕もおずおずと後に続く。


「ひよりぃぃ!! 大丈夫か!? 兄ちゃんが来たからもう安心だぞ!! コイツになにかされたのかぁ!?」


 ベッドの上で点滴を受けている白石さんに、お兄さんは暑苦しく迫った。さっきのドスを聞かせた声はどこへやら、デレデレの猫なで声だ。


「……お兄ちゃん? 声大きすぎ。頭に響くから静かにして……」


 白石さんは虚ろな目を向けた。まだ意識がふわふわしているようだ。 僕が心配して覗き込むと、彼女の潤んだ瞳と目が合った。


「あ、陽一さん……」

「白石さん、大丈夫?」

「……私、胸が……ムカムカして、苦しいの……」


「えっ!?」

 彼女は頬を赤らめ、僕の手を弱々しく握り返してきた。

「もしかしてこれ……『恋の病』、なのかな……?」


 脳がバグった彼女はロマンチックな勘違いの中にいるようだった。 その時、ガラッと扉を開けて入ってきた医師が、カルテを見ながら無慈悲に告げた。


「ウイルス性の急性胃腸炎ですね」

 シン、と病室が静まり返る。


「そのムカムカはウイルスの仕業です。牡蛎が原因とは思われますが断定はできません。脱水もひどいので一晩入院になります」


 そう告げて、忙しそうな医師はすぐに去っていった。白石さんの顔が、真っ赤になった。


「あ、そういえば私、服……」

 違和感に気づく。身体を締め付けていたガーターベルトがない。着ているのは病院の患者衣だった。忘れていた恥辱の記憶が蘇った──。


「だめぇ……見ちゃダメぇ……すごいパンツ履いてるのぉ……。ガーターも……外すの大変だからぁ……自分で」


「はいはい、点滴するから脱ぐよー。足上げてー。お着替え終了ー」


 ……そうだ。呆れ顔の看護師さんに、事務的な手つきで回収されたんだった。


「……ッ!」

 私は恐る恐る、陽一さんの手元に視線を向けた。 彼のカバンから、病院のロゴが入った紙袋が覗いていた。 陽一さんはカバンを、まるで壊れ物を扱うかのように、大事そうに、膝の上で抱いていた。


(あああああ……ッ!!)

 私の脳内で絶叫が響く。きっとあの中に入っているんだ。ガータベルトとストッキングが。私の情熱の残骸が、全部あの中に……!


 顔が引きつる私を見て、陽一さんが心配そうに背中をさすってくれた。

「だ、大丈夫? 無理しないで」

 彼は真剣な眼差しだった。


「服とか荷物は、僕が『責任を持って』預かってるから。絶対に、誰にも見せないからね」

(言わないでぇぇぇ!!)

 その誠実さが!その「責任」という言葉の重みが! 今はただただ、鋭利な刃物となって私の心をえぐるの!羞恥心と申し訳なさ、そして現実の残酷さが胃袋を直撃した。


「……ウッ」

「し、白石さん!?」

「ひ、ひより大丈夫か?!」

「だ、だいじょうぶ……。私には陽一さんがいるから。とりあえずお兄ちゃんがいると休めないから、帰って」


 その言葉は、鋭いナイフのように兄の巨体を貫いたようだった。


「え……? ひより……? お、俺は……お前のために……」

 大型犬が雨に濡れたような、シュンとした顔になる強面の男。

「……そ、そうか。……じゃあ、俺は……帰るわ……」

 とぼとぼと病室を出ていく兄を見送る。私のことになると、この兄は意外と打たれ弱いのだ。



 帰り際、白石さんのお兄さんは彼女が見ていない隙をついて、僕の胸ポケットに何かをねじ込んできた。そして、低い小声で告げた。


「……今日はひよりに免じて引いてやる。後日、あいつにバレないようにここに来い。……来なかったらどうなるかわかるよな?」


 兄が去った後、僕はおそるおそる名刺を見た。『組』の代紋が入っているかと思いきや——

 『Personal Gym DAICHI 代表トレーナー 白石大地』(ボディビル大会 優勝経験あり)

「……ジムの、トレーナー……?」


 僕はへなへなと座り込んだ。ヤクザじゃなかった。命は助かった。

 けれど、これから僕はどうなってしまうんだろうか。

カバンの中には彼女のガーターベルト。手の中には魔王(マッスル兄貴)からの招待状。 僕の受難は、まだ始まったばかりのようだった。

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